3-2



 柊が走って行った方向を追うように進んで来たものの、肝心の彼の姿は往来の何処にも見当たらなかった。

 これまでの人生の中で、足の速さで人に遅れを取ったことはあまりない。しかし、それは普通の――人間を相手にした場合の話だ。深く考えてはいなかったが、自分よりずっと『強化人間』の能力を使いこなせているであろう柊の足に追いつけるかは五分五分かもしれない。
「……」
 歩道を駆け足で進み、巨大な廃墟となったビルの前に差し掛かった所で少し思案する。少し先に見えている角を曲がって直進すれば、先程異形の姿を見かけた大通りの方へ出られる筈だ。柊と合流できていない内から、敵の方に近付いても良いものだろうか。一瞬だけ迷ったが、……順序がどうあれ、目的地が同じならば後々会えるだろう。
 そう結論付けた夏生が再び一歩踏み出そうとした瞬間、背後から襟ぐりを強く引っ張られた。
「……ッ!?」
 声を上げなかったのは首根っこを掴まれた拍子に息が詰まってしまったからで、そうでなければ無様に呻き声を上げてしまっていたかもしれない。フード部分を握られたらしい身体が一瞬だけ宙に浮いて、視界がぐるりと回転する。見慣れない灰色の天井が目に飛び込んできたのと同時に、背中に鈍い痛みが走った。

 目の前をふわふわと埃が舞っている。寝転がったままで視線を動かすと、四方を囲む灰色の薄汚れた内壁が見えた。仰向けに投げ出すことになった脚の近くには、ガラス部分が取り外された窓があり、先程まで夏生が立っていた外の景色はその四角い木の枠の中へ追いやられている。
 此処は恐らく、自分が先程まで側を歩いていた巨大な廃ビルの一室だ。その床に叩き付けられた――というより、窓から室内へ引き摺り込まれたのだと、理解するのに数秒かかった。

「……っの、バカ」
 蔑むような低い声が頭上から降ってくる。

 蝋燭の火のような色のわりに冷え切った瞳に見下ろされ、夏生は何故か気が抜けて小さく息を吐いた。
「……ああ、柊か」
「『柊か』じゃないでしょ……」
 この短時間で既に見慣れてきた神経質そうな表情が、視線がかち合った瞬間により苦々しく歪む。此方を睨む目付きの鋭さからその機嫌の悪さは十二分に伝わってきたが、そこに夏生が内心で予想していたような驚愕の色は無い。
 怒ってはいるが、意表を突かれたわけではない。どちらかと言えば、まるでこうなることを予感していたかのような――しかし、それが外れなかったことに納得がいっていないような――表情だった。
「……俺、さっき邪魔だって言ったよね」
「……ああ、そうだな……」
 呆れたような声色に相槌を返しつつ、冷たい床からゆっくりと上半身を起こす。過程はどうあれ柊に追いつくことが出来て安心したせいか、打ち付けた背中の痛みは既に薄れてきていた。
「聞いてたでしょ」
「……聞いた」
 確かに聞いた。文言まで覚えてはいる。……けれども、
「聞いたが、……俺は、返事はしてない」
「……」
 口に出した瞬間に『止めておけばよかった』と後悔したが、言ってしまったものは取り返しがつかない。無言で緩く胸倉を掴んできた手に、自分の先程の言葉がやはり間違いなく失言であったことを悟る。
 そのままがくがくと上下に揺さぶられて、これは――どう考えても今更遅いだろうとは思うが――謝罪を繰り返すしかないと判断した。
「悪かった、俺が悪かった……」
「何? 死にたいの!?」
 一応降参の意を表そうと軽く両手を上げてみたが、その動作が却って癇に障ってしまったらしく、視界の揺れが益々激しくなる。全く痛くはないものの、このまま続行されたらその内酔ってしまいそうだ。
「本当にバカなの? こんなに無駄にすくすくデカい図体に育っておいて、脳味噌には全ッ然栄養行ってないわけ?」
「無駄に……いや、そうかもしれないな……」
 身長は二人とも大して変わらないように思えたが、流石にそれを今口に出すほどふてぶてしい性格にはなれない。此方に反抗の意志がないことは伝わったのか、柊は忌々しそうに舌打ちして胸倉を掴んでいた手を離した。
「ああもう、嫌な予感はしてたけど。ここまでバカとは……」
 反動で床に打ち付けそうになった頭を寸での所で庇う。柊は深々と溜め息を吐きながら立ち上がり、蔑むような表情で此方を見下ろしていた。大の男ひとりを片腕で持ち上げるのは流石に骨が折れたのか、もしくは単なる当て付けなのかは分からないが、疲れをほぐすようにぐるぐると手首を回している。
 その声と視線の冷たさに説教が長くなる気配を感じた夏生は、柊が再び口を開く前に自分の考えを洗いざらい話してしまうことにした。
「悪かった。……その、ただ」
「ただ?」
 火に油を注ぐことにもなりかねないが、ここで彼を説得できなければ、そもそもこれから俺が同行することを許可してもらえないだろう。
「さっきの放送……いや、通信か。あの時に言われただろう、『鎧戸君も含めた全員で』って」
「それが何? あれは――」
「最後まで聞いてくれ、頼む」
 自分の考えを人に話すことは苦手だ。口が達者でないことは自覚しているし、話す内容にしても、他の人に比べて特別優れた考え方ができている自信はない。
 平均より高い身長や表情の硬さのせいか、意図せずして相手を怖がらせてしまうことも多かった。そういう出来事が重なる度、歳を重ねる度に、余計口下手に拍車がかかり、今となっては家族を相手する時ですら長く自分の話をすることは稀だった。あのまま母と姉と自分、三人だけの暮らしを守っていこうとするだけなら、あるいはそのままでも良かったのかもしれない。自分の思っていることが正確に伝わらないもどかしさはあっても、相手は血の繋がった家族だ。例えそれが仮初の、ぬるま湯のような平和でしかないとしても、慣れと安穏の溢れた生活を続ければいい。
 けれど、――此処に居ることを選ぶのなら、きっとこのままでは駄目なのだ。
 俺は此処で、自分の望みを叶えるために努力すると決めた。その過程で自分の意見を通したいなら、少しは自分で口を開かなければ駄目だ。気の強い変人ばかりのこの場所で、人に察してもらうのを待つばかりではきっと何も出来ない。
「俺はまだこの身体になったばかりだし、『異形』のことだってよくは知らない。連れて行ったってお荷物にしかならない。……それでも俺を連れて行くように言ったのは、多分、……少しでも経験を積んで、一時間でも早く慣れてくれなきゃ困るってことじゃないのか、こういうことに」
 喋っている内に慣れない長台詞に舌がもつれそうになったが、気力だけで何とか最後まで続ける。
「だから、お前には迷惑だろうけど、あの人達からしてみれば――少なくともお前があいつを倒す所を間近で見なきゃ……その、駄目なんじゃないのか」
 たどたどしい口調になってしまっている自覚はあったが、意外なことに柊は最後まで黙って聞いてくれていた。不満そうな表情を見せつつも、頭から切り捨ててこないということは、恐らく俺の推測自体は完全に誤りではないのかもしれない。
「……よく覚えてたね、どうでもいいことばっか」
「……他人事みたいに言ったけど、……俺がそうしたいんだ。お前には、面倒を掛けて申し訳ないと思ってる」
 住居のことや身体のこと、未だ合流できていないもう一人のこと――まだ良く分からないことばかりだが、……一応は、自分の意志でこの組織の一員になることを決めたのだ。俺個人の感情としても、何の成果も得ないままあの人達の所に戻るわけにはいかない。
「……何の手伝いもいらないなら、ただの見学で構わない。自分のことは自分で何とかする。……し、もし出来なくても放っておいてくれ」
「それは言われなくてもそうするけど! ……ああもう……」
 柊は未だ迷っている様子だったが、此方の頑固さを見て半ば諦めたらしい。呆れたような表情を浮かべながらも、渋々と言った様子で頷いてくれた。
「今更戻らせるのも手間だし、……お前が勝手についてきたんだから、精々、いざって時は囮にでもなって役に立ってよね」
「それでいい」
 即答すると、柊は呆れたような顔で深々と溜め息を吐いた。相槌は打たずに立ち上がると、黙りこんだままでくるりと此方に背を向けた。
 そのまま振り返らずに歩き出したのを彼なりの了承だと判断し、夏生も後を追って立ち上がった。


「……そういえば、お前はどうして此処に?」
 改めて室内を見渡すと、――元は何かの事業所だったのだろうか。幾つかは床に倒れてしまっていたが、作業用の机やキャスター付きの椅子が並べられているのが見える。蛍光灯は勿論切れていたが、四方の壁面に窓が付いており、そこから差し込む光によって、室内はお互いの顔色が見える程度の明るさに保たれていた。
「人の言うことを聞かないバカ野郎が追いかけてくるかも、って思ってたのもあるけど……、此処が一番便利そうだったから」
 柊は小声で悪態をつきながらも、慎重な足取りで歩みを進め、フロアの隅に備え付けられた階段を上っていく。夏生も同じように忍び足でその後を追い、二人は足音を立てないよう気を付けながら三階に辿り着いた。
 この階もつくりは一階と同じようで、所々に倒れた机や椅子が転がっている。一階分がそのまま一つの部屋として使われているため、そこで働く人が居なくなった今となっては、妙に広く感じられて寒々しい。
「この辺りにいるんだよね、さっきからずっと」
 遠目に窓の下を覗くと、見覚えのある赤黒い巨体が大通りをうろうろと徘徊しているのが見えた。少し歩いては反対方向に戻り、戻ってはまた引き返してくる。まるで野良犬が縄張りの中を巡回している時のような動きだ。
 先程俺と悠長に話をしていたのは、先に此奴の位置の確認を済ませていたからなのかもしれない。こういう所は抜け目がないとでも言えばいいのだろうか。
「……中から攻撃するのか?」
 銃でも持っていればその方が得策だろうと思ったが、俺は勿論、柊もそういった飛び道具を携帯しているような様子はなかった。小声で尋ねると、柊は窓の外に視線を固定したままで答える。
「今日はしないよ、誘い込むだけ」
「誘い込む?」
「だだっ広い開けた場所で、あいつらと真正面から正々堂々やり合いたいと思う?」
 幾ら強化人間の身体能力が優れているとは言っても、体躯では圧倒的にあちらの方が大きい。リーチの面でも、一撃の威力という面でも、正面から正々堂々挑んで無傷で居られる見込みは薄いだろう。
 昨日境界外で異形と遭遇した時も、あの場に奴の背丈よりも高い廃墟が存在していたからこそ、隠れながら戦うという選択肢が取れたのだ。あれは結局飛び越えられてしまったが――それでも、最初から何の遮蔽物もない場所で奴らと対峙するよりは大分マシだった。
「まあ、お前みたいなバカはそういうのが好きなのかもしれないけど。俺はそこまで考え無しじゃないし、無駄に痛い思いするのは御免だね。俺は死んでも死にたくないし、怪我だってしたくないし、……面倒だけど、出来れば少し場所を変えたい」
「場所を変える、って言ったって……」
 見た所、奴はただ自分の思うままに歩いているだけだ。今はこの辺りを哨戒しているようだが、いつまでこの辺りに居るのかもわからないし、思わぬ方向に走り出した場合は、俺達も再びこの建物から出て奴の後を追わなくてはならない。そもそもこんな所で呑気に奴への対策を話し合っていていいものだろうか。高低差は多少あるものの、奴が本気で跳躍して届かないほどではない。
「あいつらの鼻が犬並みに利くなら、こんな所で立ち話してる俺達はとっくの昔に見つかってるはずでしょ」
 此方の思考をそのまま読んだような言葉を吐かれて瞠目する。そこまで表情に出ていただろうか。
「『異形』の嗅覚はそこまで鋭くない。周囲の状況の把握は、視力と聴力に頼ってる。息を潜めて隠れていれば見つからない。……だから?」
「だから?」
 突然話を振られたことに驚いて思わず聞き返してしまったが、柊の表情は至って真面目なものだった。こき下ろすための前振りではなく、俺が自分で考えて回答に辿り着くことを求めているらしい。地下では世話役の任は降りると言っていたのに、ここにきて指導じみたことをしてくれているのは、先程俺が長々話したことのせいだろうか。少し前から思ってはいたが、時々妙に律儀な奴だ。
 聴力。その単語を自分の中で吟味していると、昨晩異形と初めて遭遇した時の記憶が脳裏に蘇ってきた。境界の傍で異形と遭遇した時――あの時の俺は、異形を引きつけようとわざと大声を出し、派手に足音を立てながら人の居ない方へ向かって走った。あれは異形の注意を男から逸らそうと思っての行動だ。今回の目的はあの時と正反対だが、奴の気を引くことが必要なら、今回も昨日と同じことをすればいいのではないだろうか。
「……音で、都合の良い場所に誘導するってことか?」
「そういうこと」
 柊は軽く頷くと、ポケットから拳一つ程の大きさの石のようなものを取り出し、此方に放り投げてきた。どうにか取り落とさずに受け取ると、それは掌の中で少しだけ崩れて、指と指の隙間から砂がぱらぱらと地面に落ちる。
 表の道路に落ちていたコンクリートの破片だろう。この身体になった所為か大した重さは感じなかったが、何処かに投擲して激突させればそれなりの威力と音は出る筈だ。
「ついてきていいとは言ったけど、今日のお前は予備でパシリだから」
 柊は淡々とした口調でそう話すと、異形が徘徊する大通りとは反対方向の窓を指差した。

 近付いて軽く下を覗いてみると、この建物と隣のビルとの間に挟まれて日陰になった裏路地が見える。細い道の先は行き止まりで、道幅は車両一台が通るのにも苦労しそうな程度には狭い。
 ――つまり、異形にとっては狭苦しいだろうが、此方にとっては『都合がいい』程度の広さだ。
「……此処で良いんだな」
「そう。投げたら、後は大人しく見学してて」
 そう言い放つと、柊は音を立てずに軽く窓枠に足を掛けた。
 その言葉には相槌を返さず、先程渡された破片を振りかぶって、向かいのビルの一階――ガラス部分が残っている窓に狙いを定める。

「外したら軽く一年は馬鹿にするからね」
「外さない」

 がしゃんと豪快な音を立ててガラスが割れて、それが開始の合図だった。

 
 

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