3-4



「……此処が?」
「第四工業団地」

 燃えるような夕焼けを背に、黒々とした外壁の建物が聳え立っている。
 恐らく上から見ればコの字型の造りをしているであろう集合住宅は、此処に辿り着くまでに通り抜けてきた街並みと同様、寂れてはいるものの原型を保っていた。

「これは、跡地というか……殆どそのまま建物が残ってないか?」
 『団地跡』という言葉から単なる瓦礫の山や広場のような場所を想像していた夏生は、その予想外の規模に少し驚愕していた。隣に立つ男――春日江は当然ながら平然とした表情のまま、明るく起伏のない声で解説してくれる。
「此処からだとそう見えるけれど、西棟の方はもうただの空き地だよ。全体を取り壊す予定だったものが途中放棄された所だから、今残っているのは東棟だけ」
 春日江の話では、あの巨大な建物は工業団地の東棟であった部分で、旧時代には同じコの字型の西棟が、それらの中央に位置する中庭を囲むようにして左右対称に並んでいたらしい――とはいっても、現在では東棟の周囲の至る所に雑草が根を張っているため、何処までが庭で何処までが西棟の跡地なのか、夏生には判断がつかなかった。
 想像していたよりも巨大な建物の規模に暫し圧倒されていた夏生を他所に、春日江は迷うことなく空き地の方向――元々中庭があったであろう方へと足を進めていく。その手慣れた段取りに思わず「詳しいんだな」と呟くと、春日江は相変わらず読めない笑顔で頷いて胸を張った。
「資料で読んだし、此処には何度も来たことがあるからね! ヒーローは記憶力にも優れているんだ」
「そうか……」
 その割には此方の名前はすぐに忘れていたようだったが。夏生は僅かに釈然としない気持ちになったものの、彼の言動の細かい所を突いていてはキリがないと思い直し曖昧な相槌を打った。

「表玄関は閉鎖されているから、其方には回らずに中庭から入り込んだ方がスムーズなんだ」
 自信に満ちた足取りで進んでいく春日江に連れられて、夏生はコの字型の東棟の内側に到着した。地面に埋め込まれた古いタイルの隙間からしぶとく生い茂る雑草を踏みつけながら建物に近付くと、遠目には分からなかった外壁の細かい罅や傷がよく見える。
 庭の方に面した手摺りをそれぞれ軽く乗り越え、夏生と春日江は一階の廊下に着地した。
「……こんな所に居るのか?」
 こういった造りの集合住宅にしては広い通路だが、それでも成人男性が二人横に並べば一杯になってしまう程度の幅だ。先程柊と共に相対した個体のような体躯では、頭から首までの部分を差し込んだ所で閊えてしまいそうな場所だった。残り一体の『異形』は、本当にこんな場所に潜り込んでいるのだろうか。
 突き当たりの階段に向かって歩いていく途中、頭に浮かんだ疑問を軽く口に出してみると、春日江は「その可能性が高いね」と明るく淡々とした口調で話し始めた。
「異形の大きさには個体差がある。君がこれまで出遭った個体はこの建物には入りきらないサイズだったかもしれないけれど、この廊下の幅よりも身体の小さい個体も存在しているよ。そういう小物は、廃墟の中に入り込んでいることもよくあるんだ」
「そうか。……けどそれなら、この団地に居るとまでは絞れないんだな」
 異形の体躯がそこまで巨大でないとすれば、室内に侵入できそうな建物はこの団地の他にももある。来たときに見た限りではこの近辺で一番高い建物ではあるし、後々柊達と合流することを考えるならば目印として分かりやすくはあるが。
「そうだね、けれど私は小学校でなければ此方だろうと思った。以前のデータから考えると、A地区内では此処が一番有力な選択肢になるし――あとは、私のヒーロー的直感でね!」
「そうか」
 前半はともかく、後半部分の理由は今一つ信憑性に欠けるような気がしてならなかったが、ここは黙って頷いておくことにする。春日江は笑顔で満足げに頷き返すと、「それじゃあ、最上階から順に見て行こう」と提案してきた。

 その指示に従って、鼻歌でも歌いだしそうな軽やかな足取りで進んでいく春日江の後に続き、夏生も階段を上る。到着した時口にしていた『何度も来たことがある』という言葉はどうやら本当らしく、春日江はこの建物の構造を完全に熟知しているようだった。
 ――それにしても、まるで自宅の中でも歩いているかのような緊張感の無さだ。
 場数を踏んでいるという点では同じでも、柊とはまるで対照的な雰囲気だった。柊のやり方が慎重すぎるという評には同意したが、春日江は逆に極端にリラックスしているというか、失礼な言い方をしてしまえば少し、呑気に見えるというか。新参者である自分が言うのは差し出がましいということは分かるので実行はしないが、つい油断しすぎなのではないかと口を挟みたくなってしまうような態度だ。
 そういえば、あの二人はどのくらい前から『特務機関』に居るのだろう。年齢は二人とも、自分や阪田と大して変わらないように見えるけれど――そんな取り留めのないことを考えながら、四階から五階へと続く階段の踊り場に足を踏み入れた瞬間、肩から背中にかけて冷たい予感が走った。

「……っ」
「――いるね」

 緩やかに床を踏みつける足音が聞こえる。

 姿勢を低くして五階の廊下を盗み見ると、コの字に折れ曲がった通路の中央付近――この地点から見ると右斜め前の方向、転落防止用の手摺りの影に赤黒い姿が見え隠れしている。
 本当に居た! 体長は四足歩行をしていれば難なく廊下を通り抜けられる程度のもので、先程遭遇した個体よりは大分小さく見えた。けれどもその不気味な容姿は他の個体と変わりがなく、ぎょろりと飛び出た目で前方を見つめながら、夏生達が上がってきたのとは反対方向の階段へと向かって歩いている。多少距離が空いているためか、此方の気配にはまだ気付いていないようだった。
「当たり」
 隣でその動きを見つめていた春日江は、何処か嬉しそうな声色で独り言のように呟いた。
 ――正直、初手で『異形』が入り込んだ場所を引き当てられるとは思っていなかった。春日江は此処で異形に出会えると予感していたようだったが、何処までが偶然で何処までが計算、いや、彼の言葉に拠るなら――『ひーろー的直感』? なのか。
 分からない。俺にはこの男の真意が掴めない。
「じゃあ、行ってくるね」
 夏生の動揺を気にすることもなく、春日江はごく自然な口調で明るく宣言した。
 その声質があまりにも普段通りすぎて、夏生には一瞬何が起きようとしているのか分からなかった。夕日に照らされて赤味を帯びた金髪が、数センチ先でふわりと風を含んで揺れる。眼前の彼が立ち上がったのだと気付いた瞬間、夏生の意識は急速に緊張感を取り戻し、深く思考するより先に身体の方が動いてくれた。
「……!」
 階段から飛び上がるようにして踏み出した春日江の右足が、五階の廊下に勢い良く音を立てて着地する――直前。
 夏生は前方へ駆け出そうとしていた春日江の右腕を掴み、丁度ドアが半開きになっていた手近な部屋の中へと引き摺りこんだ。するりと抜け出ていこうとする細身の身体を、残った左腕をも掴むことで引き留める。今出て行かれては困ると必死に力を込めた結果、彼の脇の下から自分の両腕を回して羽交い絞めするような体勢になった。
 玄関先で押さえつけられたまま此方を振り向いた彼は、少し不思議そうな表情で口を開いた。
「? ――」
「ちょっ……と、待て」
 小作りな唇が普段通りの声量で言葉を紡ごうとしていることに気付いて、慌てて左手で彼の口を塞ぐ。そのまま扉の裏で息を潜めていると、廊下から聞こえていた不規則な足音は徐々に遠ざかっていった。恐らく位置的に此方の存在には気付かず、振り返らずに階段を下りていったのだろう。

 『異形』がこの階から去ったことを確認し、夏生はほっと息をついた。安堵から腕に込めた力を無意識に緩めると、耳元で突然「鎧戸君」と落ち着いた声が聞こえて、夏生は思わず後ろに仰け反る。
「人を背後から突然羽交い絞めにすると危ないよ」
「わ、悪い……」
 真面目な表情で告げられた正論に思わずたじろく。
「まあ、私はヒーローだから背後から掴まれても全く大丈夫なのだけれど」
 あっけらかんと言う春日江に、思わず「そうか」と相槌を打ちそうになった所で我に返る。また春日江のペースに呑まれる所だった。ここで流されてしまっては、自分が彼を引き留めた理由を話しそびれてしまう。
「違う……いや、さっきのは俺が悪かった。けどその話じゃなくて……お前、あのまま突っ込む気だったのか」
「そのつもりだったけれど、何か問題が?」
「いや、それは……この廊下であいつに気付かれたら、その後は逃げも隠れも……というか、避けることも出来ないだろう。それは少し、無謀すぎじゃないのか」
 『異形』の脇をすり抜けて駆けて行ける程の幅もない廊下だ。満足に逃げられる場所は両端にある階段のみ、手摺りの向こうは中庭だけれど、下にクッションになる物が何もない状態で硬い地面に飛び降りるのは現実的ではない。先程自分がしたように、周りの部屋に飛び込むことも可能ではあるが、このように薄い玄関扉は異形に一瞬で吹き飛ばされてしまうだろう。
 つまり、此処であの異形に認識されるということは、一切の退路がない状態で敵の懐に真っ直ぐ飛び込むことと同じで――先程のビルで柊に説明されたのとはまるで真逆の戦法だった。
「無謀じゃないさ」
 春日江はうんうんと頷きながら聞いていたが、話が最後まで終わった瞬間、平然とした態度で夏生の主張を全て切り捨てた。
「逃げられないなら、逃げずに倒せばいいだけの話だからね」
 ――あまりにも自信に溢れすぎた言葉に唖然として、返す言葉を失ってしまう。
「……」
 思い返せば、境界外を探索している間から、発見した異形の方へと踏み出すその瞬間に至るまで、春日江の顔に恐怖や不安といった感情が浮かぶことは一度もなかった。
 そもそも、この緊迫した状況――異形を討伐する、という任務に対して、春日江の態度はあまりにも穏やかすぎるのだ。手慣れ過ぎている、と言うべきかもしれない。自分はその態度を、単に彼の明るすぎる性格からくるものなのかと思っていたが、それだけでは何か――要素が、足りていない気がしてきた。

 無軌道で自信過剰に見えて、春日江の行動にはしっかりと結果が付いてきている。屋上から飛び降りて踏みつけるという非常識な手段を使ったとはいえ、二人がかりでも苦戦した個体に一瞬でとどめを刺したのは春日江だった。残り一体が団地の中に潜り込んでいると考え、実際に予想を的中させたのも彼だ。
 先程の個体に関してだって、もしかすると自分が引き留めなければ今頃本人の言葉通りに倒せていたのかもしれない。

 ――境界外の街を、見知った庭を歩くような気軽さで闊歩できるような見識。退路を確保せずに敵の懐に飛び込んでいけるような度胸と自信。
 それらに、『実力』という根拠を与えるものがあるとすれば。

「……その、変なことを訊いてもいいか」
「? いいよ。あの分なら、あれは暫くこの辺りを徘徊しているだろうから」
 唐突に話題を変えた夏生に対して、春日江は快く承諾し「先に君の疑問を晴らしてから進もうか」と優しげに微笑んだ。
「……お前は……いつから此処に居るんだ?」
「A地区に到着したのは二時間前かな」
「そっちじゃなくて……」
 春日江は、まるで察しがつかないという表情で少し首を傾げた。
「なら、どれのこと?」
 不自然なほど澄んだ青い瞳が、あまりにも真っ直ぐに此方を見つめてくるものだから、何も後ろめたいことはないはずなのに視線を逸らしたくなってしまう。しかし此処で質問を撤回するのも却って失礼な振舞いである気がして、夏生はどうにか喉の奥から振り絞るようにして言葉を続けた。

「……『特務機関』に、いつから居るんだ」

 一瞬ふざけているのかと疑ってしまう程の自信に、力という根拠を与えるもの。それはきっと、経験だ。
 夏生はそう尋ねつつも、数か月、一年といった種類の答えが返ってはこないことを半ば確信していた。――この男と自分の間に横たわる差は、そんな単位のものではない。
 彼が呑気に見えたのは、彼にとって、『異形』を殺すことが――きっと、何も特別なことではないからだ。朝日と共に目を覚ますこと、食事をしたら歯を磨くこと。春日江にとっての異形殺しは、夏生にとってのそれらと恐らく同等だった。人影のない廃墟の街を歩くことも、自分の身長を優に超える体躯の怪物と渡り合うことも、彼にとっては呼吸と同じぐらい自然な動作で、骨身に染みついた日課なのだろう。
 ――ひとりの人間の中で、非日常が完全なる日常へと変わるのに時間は如何ほどだろうか。

「十年前」
 それは普段と変わらない、涼やかで平坦な声で齎された回答だったが、夏生にとっては心臓を灼熱の杭で打たれたような感覚を覚える言葉だった。

「だから、一、二、三――ああ、七歳の時になるかな」
「七歳!?」
 自分の歳を指折り数えつつ、何でもないように語る春日江に、夏生は驚愕で思わず声を荒げてしまった。自分の口から出てしまった声量に気付いてはっと口を押えたが、足音が近づいてきていないことを確認して再び言葉を続ける。
「それは……怖く、なかったのか」
 大の大人ですら叫んで逃げ惑う。七歳の子供が相対して恐怖を感じないことがあるだろうか。幼さゆえに異形との遭遇の末にある『死』の恐怖をまだしっかりと理解できていなかったとしても、普通の子供ならあの赤黒くひび割れた肌や血走った目の恐ろしさを目の当たりにしただけで泣き叫んでも無理はないだろう。
「怖い?」
 春日江は一瞬、何故そんなことを尋ねるのかまるで理解できないという顔をした。しかしその表情を見せたのはほんの数秒だけで、すぐに「君もそれを訊くのか」と少しだけ興味深そうな口振りで頷く。
「そうだね、私は戦うことに恐怖を感じてはいない。今は勿論、初めて境界外に来たときもそうだった」
「……それは、どうして」
 経験という根拠がない内から、何故そこまで恐怖と無縁でいられたのか。夏生は単純に、目の前の男の理屈が知りたいという気持ちになっていた。
「簡単だよ。一言で言うならば、私は十年前から私で、ヒーローだからさ!」
「……もう少し、詳しく説明してほしい」
 ――端的すぎて、正直全く理解できない。夏生が追加の解説を要求すると、春日江は特に気分を損ねた様子もなく「わかった」と頷いた。
「異形がもし新東京に侵入すれば、多くの市民が命を落とす。――けれど、私がここで異形を殺すことで、街はその脅威から解放される」
 思わずはっと息を詰めてしまったのは、春日江の回答が突飛だったせいではない。
 彼の言葉が理に適っていて――初めて異形に向かっていった昨晩の自分が考えていたことと、寸分違わず『同じ』だったからだった。
「なら、それは正しいことだろう? 私は、正しいことは怖くない」

 作り物のように整った顔に浮かべられた表情は、普段と変わらない軽やかな微笑だ。けれどそこから放たれた言葉の方は、聞いている方が少し気圧されてしまう程度にははっきりと、断言するような響きを持っていた。
「私にはいつも、自分の為すべきことが分かっている。正しい目標だけじゃない、それを達成するために、次の瞬間に何をすればいいのかも――どうすれば勝てるのか、次は何処を刺せばアレが死ぬのか。全てが手に取るようにわかる」
 男はまるで演説するような、歌うような声色で語った。
「正しい結末(ハッピーエンド)に辿り着くための道筋が見えているなら、何も恐れる必要はない」
 時折登場する横文字の意味は相変わらず理解できなかったが、彼の言いたいことは此方にも何となく伝わってきた。自分の行動に正当性があり、それが良い方向に進むと何の疑いもなく信じられているならば、行動することに何の躊躇いも生まれないということだろう。
 ――俺には春日江のように、自分がすること、そしてそのために選ぶ手段が、絶対的に正しいものであると言える自信はない。けれど、春日江が「正しい」と言い切ったことーー自分が異形を境界外で討伐することで、街中にその被害が及ぶ恐れを無くそうという考え。そのために行動することに関しては、全面的に同意できた。心の底から。できて、しまった。
「そういう、ものか……」
 春日江の返答に、夏生は心の中から湧き出る驚きを隠しきれなかった。
彼ならもっと滅茶苦茶な、一から十まで理解に苦しむようなことを言うのではないかと思っていた――という失礼な想定を一八〇度裏切られたせいもある。しかしそれよりも大きかったのは、自分があの人や柊に答えて切り捨てられたことと殆ど同じような行動理念を、ここに来て『一人目』である春日江――これまで散々、何処かずれた所のある人間、自分にとって、共感などは全く及ばないところにいる存在だと決めつけていた男が持っていることに対する戸惑いだった。
「――さっきから、『怖くないのか』と尋ねるわりには」
 夏生の当惑を余所に、春日江は世間話でもするような何でもない調子で切り出した。

「そう言う君も、特に怖がっているようには見えないけれど」
「……!」

 話題の矛先が突然此方に向けられたことに驚愕して、肩が僅かにびくりと跳ねる。
「あの時にも言ったけれど――鎧戸君と柊の様子、屋上から少しの間見ていたんだ。交戦中も君の身体はほぼ常に安定していたし、柊に強く促されるまでは退避の姿勢に入ることもなかった」
「……俺はもう、……十七だ」
「初めての異形討伐、という条件なら、十年前の私も今の君も同じだろう?」
 咄嗟について出た言い訳のような台詞を即座に切り捨てられ、夏生は思わずぐっと言葉に詰まった。
「私のことを引き止めた時は少し鼓動が早まったようだけれど――その数秒以外ずっと、心拍は安定しているし、突然蹲ったり嘔吐したりもしない。『怖がる』って、そういう行為とは違うのかな」
 予想していたよりも冷静な判断基準に息が詰まる。
 相手の表情や声色といった、観察者の心象に左右される指標に拠らず、あくまで生理的な身体の反応をただ指摘してみたような春日江の言葉はやけに客観的で、だからこそ反論の余地がなかった。
「……その反応は少し、大袈裟なんじゃないか」
「阪田君はそうだったけれど」
「……」
 苦し紛れの言葉が思わぬ方向に飛び火してしまい、夏生は心の中で阪田に謝罪する。

 ――恐怖。それを全く持たない春日江の態度を疑問に感じておきながら、いざそれが自分の中にあったかと問われると即答できない。
 先程の戦闘で柊に自分の無計画さを非難されなかったとしたら、いや、されていたとしても、今此処に春日江――自分以外の、傷付くべきではない人間が存在しなかったとしたら。それでも俺は冷静に、恐怖を持って、適切な退路を確保することを考えられていただろうか。
「俺は……」

 此処に来るまで、俺はこの男のことを――掴み所のない男だと、自分とは遠い、正反対の人間だと、心のどこかで思っていた。けれど、けれど。もしかしたら本当は――

 靄の掛かったような思考は、場違いなほど明朗で快活な声によって断ち切られる。
「私はどちらでもいいよ。君が恐怖しようとしまいと、今日はヒーローであるこの私がついているのだからね! 安心して、私に任せてくれ」
 扉の前に立った春日江は、くるりと此方を振り向くと、ついでのように付け加えた。

「だから、君は君の好きなようにするといい」

 そう言ってにこりと笑う顔に、得体の知れない不安と、少しの――高揚感を感じながら、夏生は知らず知らずの内に首を縦に振っていた。





 
 

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