3-6



 部屋を飛び出した春日江の背中を追って階段を下りている途中、再び散漫に廊下を歩く怪物の足音が近くに聞こえてきた。

 自分が春日江を引き留めていた間に屋外へと逃げられてしまっていたらどう詫びるべきかと心配していたが、どうやらそれは杞憂だったようだ。先程彼が予想していた通り、異形は暫く団地内を徘徊していたらしい。
 徐々に色濃くなる敵の気配と、全く速度を落とすことなく歩を進める春日江の態度に、夏生は自分の鼓動が段々と速くなっていくのを感じ――そして、その変化の原因が『恐怖』ではないことを、自分でも少しずつ自覚し始めていた。
 ――この感情は、どちらかといえばもっと前向きな、ある種の期待のようなものなのかもしれない。
 地下であの人の話を聞いた時に覚えた感覚と少し似ている。そしてそれは、此処(特務機関)に来るまで、久しく感じることのなかったものだった。

 そのまま足を止めることなく階段を下り切り、四階へと到達する。
 廊下の中央付近。低く唸り声を上げる赤黒い皮膚の獣は、先程とは異なり、しっかりと二人の存在を認識してしまっているようだった。殺気だった一対の赤い瞳は、少しの不審な動きも見逃さないとでも言うような鋭さで此方を真っ直ぐに見据えている。
「ガァアッ――!」
「……どうするんだ」
 口ではそう尋ねつつも、夏生は最早返答の内容を確信できてしまっていた。
 春日江は此方の予感を肯定するかのように穏やかに微笑むと、短い言葉で宣誓する。
「このまま突っ込む」

 言うが早いか、春日江は旋風のような速さで標的目掛けて走り出した。
 その姿を視認した異形も同時に此方へと向かって駆け出してくる。一人と一体の間の距離は、どちらも一切スピードを緩めないまま一瞬で縮まっていき、いよいよ正面から衝突するのかと思われた寸前――春日江は手摺り側の支柱に両手を掛けると、空中へ身体を投げ出し――大車輪の要領で柱を軸に一回転すると、その勢いのまま赤黒い異形の身体へと飛び蹴りを喰らわせた。
 硬い靴底を叩き込まれた巨体は衝撃で真横に吹き飛び、近くの部屋の壁を突き破りながら崩れ落ちる。
「ガァア――!」
 床が抜け落ちやしないだろうかと心配になる程度には派手な攻撃だったが、やはり致命傷には至らなかったようだ。粉塵が舞う室内からは、異形の怒りに満ちた咆哮が響いてくる。しかし春日江は特に怯んだ様子もなく、腿のベルトに掛けたケースから抜いた二本のナイフを両手に携えると、躊躇なく半壊した部屋の中に突入していった。
「……!」
 目の前で繰り広げられた破壊行為に呆気に取られ、夏生は思わず少しの間廊下の入口で立ち尽くしてしまっていた。――突っ立っている場合じゃない! 既に視界から消えてしまった先達と異形の姿を求め、遅れて廊下の中央付近にある部屋の方へと向かう。

 壁面に空いた穴を潜って室内へと飛び込むと、部屋の奥の方から金属が激しく擦れ合うような高い音が響いてきた。雨戸が閉め切られた部屋の中は暗く、絶え間なく続く衝突音から戦闘が続いているのであろうことは想像できるが、砕けた壁の破片や大量に舞い上がった埃の所為で視界が覚束ない。
 部屋同士を隔てていたのであろう薄い壁は既に破られてしまった後で、当初異形が転がり込んだ部屋と隣室との境目は最早消失してしまっている。当初より随分と広くなってしまった部屋の中で、夏生は残されていた家具の残骸や散らばった瓦礫を手探りで避けながら音の方向へと進んだ。
 時折躓きそうになりつつも足早に奥へと進むと、引っ掻くような金属音は徐々に大きく、近くなっていく。鼓膜に響く不快な音に良い加減耳を塞ぎたくなってきたところで、昨日までよりも少し鋭くなった気がする聴覚は微かな人間の呼吸音を拾った。
「……っ」
 思わず息を潜めた夏生の数メートル先、暗闇の中で細身の人間の輪郭らしきものが動く。
 絶えず埃が舞い落ちる息苦しい部屋の最奥で、人影――春日江は異形と交戦を続けていた。右手に携えたナイフを振り翳すと、目にも止まらぬ速さ――彼と同じ『強化人間』の身体を手に入れた夏生には、赤黒い体皮に幾度となく細かい裂傷を与えるナイフの動きを捉えることが出来たけれど――で、異形の前脚を切りつける。
 春日江の表情からは、やはり「恐怖」に相当する感情はまるで読み取ることができなかった。自分の倍程もある体躯の敵に対して、欠片も怯むことなくその懐に飛び込んで――どちらかといえば確実に、圧倒している。
「ガアァ――!」
 対する異形は獣は時折春日江の身体を噛み砕こうと飛び掛かっているものの、悉く避けられては傷を増やしているようだった。しかし相手を威嚇するだけの生命力をも失ってはいないようで、未だ血走った瞳で春日江の動きを見つめながら低い唸り声を上げている。一人と一体は、どちらもお互いとの削り合いに集中しきっていて、少し離れた場所で息を殺している夏生の存在にはまだ気が付いていないようだった。
 目の前で行われる接近戦のスピードと完璧さに意識を奪われた夏生が、またもや只の傍観者になりかけた時、不意に異形の身体が大きく揺れ動いた。
 中々口内に捕らえることの出来ない獲物に業を煮やしたのか、赤黒い巨体が突然二本の後ろ足で立ち上がったのだ。高く仰け反った頭部は低い天井を突き破り、破壊された天井板がガラガラと音を立てて崩れてくる。落ちてきたその破片の一つを春日江が床に転がって避けたとき、異形はその一瞬の隙を狙うかのように右腕を振り下ろした。
 標的を刺し潰そうとする鉤爪の鈍い輝きを視認した瞬間、夏生の意識は金縛りが解けるような感覚と共に現実感を取り戻した。
「――ッ!」
 深く思考するより先に身体が動く。降り注ぐ天井の破片が肌を掠めるのも構わず、一歩、二歩と強く床を蹴ると、先程まで何処か遠い世界の住人のように思えていた一人と一体との距離は一気に縮まる。
 春日江がしていたように、全体重を一か所に集中させて、一撃を出来得る限り重く――!
 渾身の力を込めた蹴りは異形の無防備な頸椎に命中し、衝撃で息を詰まらせた巨体の身体がぐらりと揺れた。その隙に素早く鉤爪の射程範囲から退避した春日江は、此方の姿を視認すると、場違いなほど呑気な、ぽかんとした表情で首を傾げた。
「鎧戸君?」
「好きにしていいって、言っただろう……!」
 ――武器を与えられなかった時点で、初めから戦力として頼りにされていないことは分かっていたのだ。柊の時と同様に、先程の攻撃だって、俺が妨害しなくともきっと春日江は一人で軽々と対処することが出来たのだろう。しかし、たとえ大した役には立てなかったとしても、此処で黙って春日江の勝利を待っていられるほど素直な人間にもなれなかった。
 隠れているのも逃げるのも俺の自由だと言うならば、戦おうとすることも自由だろう。

 それから、俺はきっと単純に、――もう少し、近くで見てみたかったのだ。
 この自信と力に溢れた男の戦い方と、彼が本当の所、どういった人間なのかということを。そして、彼が自称する――『ヒーロー』というもののかたちを、自分の目で確かめてみたかった。
 彼の力に圧倒されるだけの傍観者としてではなく、もっと違う位置で――今日のところはまず、自由気ままに走って行く『先輩』の後ろ姿を追い掛ける、未熟な後輩としてでも。

「――」
「……っ!」
 直ぐに体勢を立て直した異形が、今度は此方に向かって腕を振り下ろしてきたのを飛び退くようにして避ける。しかし完全には躱しきれず、鉤爪が腹部を微かに掠めたような感覚があった。
 春日江からの返答はまだない。力不足の若輩が子供じみたことを言ってしまったからかと、夏生が自らの発言を後悔し始めたとき、淡々とした抑揚のない声が耳に届いた。
「いいよ、それでも」
 春日江はそう言うと同時に、此方へ向かって何か黒いものを投げつけてきた。真っ直ぐな軌道を描いて飛来したそれ――ケースに入れられたままのナイフを何とか取り落とさずにキャッチすると、数メートル先の春日江が普段通りの笑顔で叫ぶ。
「なら、少しの間タッグマッチと洒落込もうか? 相手は一体だけれどね!」
「タ……? ……っ、何でもいい!」
 春日江は笑みを崩さぬままで敵の背後に回り込むと、風を切るような速さでその背中を切りつけた。痛みで呻いた異形は、その原因を掻き潰そうとでもするかのように何度も両腕を振り下ろしたが、春日江はそれら全てをひらりと軽く飛んで躱す。

 空振りした長い腕が宙を切る様を見ながら、夏生は借り受けたばかりのナイフをケースから引き抜いた。
 俺達のような『強化人間』も、『異形』も――どんな生き物でも、攻撃を放った直後に少しの隙が出来てしまうのは同じはずだ。そう考えた夏生は、再び異形が春日江に向けて腕を振り下ろした瞬間、無防備に空いたその脇腹を狙って深くナイフを突き刺した。
 ぐっと捻りを加えながら一気に抜き取ると、栓を失った傷口からごぼりと勢い良く血液が噴出する。痛みからか体勢を崩した異形は、前のめりになって再び二本の前脚を床に着地させた。
 異形が無事姿勢を低くしたことを横目で確認すると、夏生は声を振り絞って叫んだ。
「っ……ッ春日江!」
「オーケー」
 夏生の合図を受けるまでもなく、春日江は新体操でもするかのような軽やかな足取りで異形の背中を駆け上がった。寸分の狂いもなく振り下ろされたナイフは脳天に深く突き刺さり、赤黒い巨体は目を剥きながら絶叫する。
「ァ――――」
 充血したその目玉の中に、先程まで此方へと向けられていた刺すような眼力は最早存在しなかった。血のように赤い瞳の焦点は徐々にずれていき、その色は急速に濁っていく。
 『異形』の急所は脳幹と心臓であると教えてくれた柊の言葉が、今になって不意に脳裏に蘇った。
『一度で確実に仕留められるなら――』
「君は今日、此処で死ぬ。何故なら――」
 絶命した怪物の身体の輪郭は緩み、流れて、床に沈んでいく。

「――正義は、必ず勝つものだからね!」

 満面の笑みと共に放たれた勝利宣言は、二人分の生の気配が残された部屋にあくまで明るく、高らかに響いた。


 時間にしてみれば十分にも満たないであろう短期決戦だったが、体感的には随分と濃密に感じた。
 ビル街での戦闘を終えた時よりも疲労が軽く感じる気がするのは、任務を完全に終えたことへの安心感のせいか。それとも先程とは違い、今回は僅かばかりだが敵との決着に関わることが出来た充足感のせいだろうか。
「あっ、」
 再び一階に戻り、窓を通って中庭へと降り立ったとき、聞き覚えのある男の声が耳に届いた。
「阪田、」
 声の主は、先程班分けをした際に小学校跡に向かうと言って別れた阪田だった。現地に着いた後、其方は空振りだったと判断して此方に進路を変更してきたのだろう。
「無事で良かった……! さっきから何度か電話もしてたんだけど、全然繋がらないからどうしようかと……」
「電話? ああ、通信機のことか。そういえば電源を切っていたかもしれない!」
「そ、そっか……」
 あっけらかんとした春日江の返答に、阪田は一瞬だけぽかんとした表情をしていたが、すぐに少し引き攣り気味の苦笑いで頷いた。先程屋上で合流した時と同じく、春日江のこの手の態度には深入りすることなく受け流した方が話が円滑に進むと判断したようだ。
 その賢明な言動を受けて、通信機の話題はもう片付いたと判断したのだろう。春日江はくるりと阪田に背を向けると、建物の壁に凭れかかっていたもう一人の強化人間に声を掛けた。
「そういう訳で、今日の任務は無事に完了したよ。――柊」
「……そう」
 自信に満ちた同僚の言葉を受け、柊は冷えた無表情のままで頷く。しかし遅れて此方に向き直り、春日江の姿をその視界に入れた瞬間、橙色の瞳は少しだけ驚いたように見開かれた。
「……。お前」
「掠り傷だよ」
 はっきりと顔を合わせた途端に苦虫を噛み潰したような表情になった柊に、春日江がいつも通りの明るく平坦な口調で応答をした。柊はその簡潔な返事にそれ以上の追及を諦めてしまったようで、夕暮れの中庭に何とも言えない沈黙が流れる。
 ――先程から思ってはいたが、この先輩二人はあまり仲が良くないのだろうか。どちらとも今日初めて会ったばかりの自分から見ても、明らかに波長が合わないことが予想できる組み合わせではあるけれども。
 いや、今はそんなことより、
「……掠り傷?」
 夏生はその単語を耳にして初めて、春日江の上着の裾――左手の手首辺りを覆う部分に、微かに血が滲んでいたことに気が付いた。
 返り血で出来た汚れもあるために分かりにくいが、内側から染みてしまったのであろう血液で、黒に近い灰色の生地は赤黒く変色している。異形から直接攻撃を受けたのか、部屋が破壊された時に飛び散った内壁の破片で切ったのかは定かでないが、恐らくは先程の戦闘の途中に負ってしまった怪我だろう。
「……気が付かなくて悪い。大丈夫か」
 夏生が謝罪すると、春日江は「大したことじゃない」と何でもないような口調で笑って袖を捲った。そうして露わになった不健康なほど白い腕には、最早かすり傷のひとつも残っていなかった。
 強化人間の再生能力――夏生が昨晩自分の身体で体験し、先程地下であの男が実演してみせたものと同じだろう。あの時にも手品でも見せられたような気分にはなったけれど、こうして数分前に負ったはずの傷が既に治っている様を他人の身体で目の当たりにすると、改めて何か不可思議な、不自然なものを目撃しているような心地になる。

 この場にいる全員が跡形も無く消えた傷口の様子を確かめたところで、春日江は服装を手早く整え、「それじゃあ」と明るい声で切り出した。
「今日はサンプル採取の要請も無いようだし、これでミッションコンプリートだね。帰還するとしようか!」
「ああ」
「あ、はい! ……じゃなかった、うん!」
「……了解」
 三者三様で欠片も息の合っていない返事だったが、春日江は満足げな笑顔でしっかりと頷き、意気揚々と一人先を歩き出した。
 ――何はともあれ、大事がないのなら良かった。普段と変わらず快活さに溢れた男の様子に、夏生も安心感でほっと息を吐く。前を行く男の後を追いかけようと足を前に一歩踏み出した瞬間、下腹部に軽い衝撃が走った。
「……っ……」
 前触れなく肘鉄を入れられた脇腹を片手で押さえる。――恐らく本気で行われた攻撃ではなかったので痛くはない。特に痛くはないのだが、嫌な予感がする。主にこの唐突な八つ当たりの先に待ち受けている展開に関して。
 恐る恐る首を横に動かして隣を見ると、予想通りと言うべきか、いつのまにか傍まで歩いて来ていた柊が此方をじとりと睨みつけていた。
「……俺は、お前にも発見次第連絡しろって言ったよね?」
「……そういえば」
「『そういえば』じゃないから!」
 ……思い返せば、確かに別れ際にそんなことを頼まれていたような気もする。最初の頃は頭の片隅に置いていた気がするのだけれど。団地に到着してからは春日江との会話や行動に気を取られ、いつのまにか完全に忘却してしまっていたようだ。
 此方のぼんやりとした態度に柊の苛立ちは益々増幅したようだった。矢継ぎ早に「単細胞、シングルタスクしか出来ない低スペック人間、ハト以下」などと取り留めのない罵倒を浴びせかけられ続け、夏生が一言目で謝罪し損ねた自らの失策を実感し始めた頃。柊は不意に言葉を止めて溜め息を吐くと、呆れきったような声で呟いた。
「……あとお前、また刺されたでしょ? 二日連続貧血とか止めてよね。ただでさえデカくて邪魔なのに、また意識不明になったら本当にただのお荷物だから」
「? ……ああ、これか」
 柊の言葉を受け、先程彼に小突かれた脇腹の辺りを見下ろすと、先程異形に攻撃を受けた際に流れ出た血液が灰色の服に大きな染みを作っていた。目の前の敵を倒すことに集中していた所為か、指摘されるまではあまり意識してはいなかったが、言われてみれば確かに少し頭がぼうっとしてきたかもしれない。
「ああって、お前ね……」
「……ま、まあまあ柊くん、」
 またもや長い説教が開始されそうになった瞬間、少し後ろを歩いていた阪田が恐る恐るといった様子で声を掛けてきた。
「鎧戸くんは今日が初めてなんだし、色々頼んだら少しは抜けちゃうのも仕方な……」
「阪田ちゃんは黙って前見て歩いて。瓦礫とか何もない所とかで躓いてももう待たないから!」
「すみません……」
 ――この二人はこの二人で、此処に辿り着くまでに紆余曲折があったらしい。自分を庇ったせいで阪田に矛先が移ったことを申し訳なく思いつつ、どう話に割って入ればいいものかを考えていると、ひとり前を歩いていた春日江が何かを思い出したようにぱっと此方を振り返った。
「鎧戸君!」
「……何だ、春日江」
「私のナイフを渡したままだった。返してくれる?」
 そういえば、団地での戦闘の最中にナイフをケースごと借り受けていたのだった。
「……ああ、……」
 忘れない内に返却しておいた方がいいだろう。そう考えた夏生は一度頷いたものの、その後ポケットの中から取り出したケースの有様を確認して黙り込んだ。
 布製のケースは、先程異形の脇腹を刺した時に浴びた返り血に塗れて酷く汚れてしまっていた。『境界外』で用いる道具である以上、ある程度は仕方のないことだろうが、流石にこのままの状態で返すのは申し訳ない。――仕方ない、柊に借りた服一式も合わせて、全て洗濯してから持ち主に返却することにしよう。「洗って返させてくれ」と断りを入れると、春日江は軽く「わかった」と微笑んで承諾してくれた。

 再び前を向き直した春日江は、それ以降は全く背後を振り返ることなく、ずんずんと早足で先へ歩いていく。
 猫背気味にふらつきながら歩く貧民街の人々を見慣れた夏生の目には、かえって珍しく見えるほどに真っ直ぐで、姿勢の良い背中だった。
「――春日江」
 衝動的に男の名前を発音すると、当然のことながら目の前を歩いていた本人が此方を振り返った。
「? 何かな、鎧戸君」
「聞きたいことがあるんだが」
 ――夏生が『特務機関』の一員になって初めて与えられた任務は、あと少しで完全に終わろうとしている。本部に帰還してしまう前に、夏生にはどうしても彼――春日江に尋ねておきたいことがあった。
「お前がよく言ってる、その……」

「ヒーロー……って、何なんだ」

 自己紹介を聞いてから、ずっと頭の片隅で疑問に思っていた単語だ。
 最初――春日江のことを単に、どこかズレた変人で、自分とはかけ離れた存在だと思っていた頃は、別に意味が分からなくても構わないと思っていた。彼の言葉に度々登場する横文字の一つでしかない。理解しようとするだけ無駄なのだろうと。
 けれど、今の自分は――春日江が執着するものの正体を、知りたい、教えてほしいと思っている。
 春日江は少し驚いたように目を見開いていたが、すぐに「いい質問だね」と笑顔で口を開いた。
「ヒーローって言うのはね、鎧戸君」
 どこか夢見るような口調だったが、その目は何処までも本気だった。

「人を助ける人のことだよ」
 こんなにも真っ直ぐな目で「人を助ける」と言い切る人間を、俺は初めて見た。

 こいつはきっと、人を助けることは正しいと、自分は何も間違ったことなどしていないのだと、心の底から信じている。そしてその信念の通りに行動し続けて、実際に多くの人間の命を影で救っている。俺が無為に過ごしていた十年の間も、この男はずっと、今日のように『外』で戦っていたのだ。

 ――認めてしまえば、その瞬間、いや、恐らくはもう少し前から――俺は、確かに彼の姿に見惚れていた。

 恋だとか愛だとか、そういう柔らかい種類の感情では多分ない。多分これは、自分よりも遥か先の地点にいる同年代の人間に対する憧れであって――これまで他の人間には感じたことの無い、共感のようなものでもあった。容姿も性格も、彼と自分では全く異なっているはずなのに、どこか似通った要素を感じている。
「わかった?」
 そう言って微笑みながら、夕日の中で此方を見つめる彼の姿かたちは、客観的に見て美しい、のだと思う。人間の美醜に疎い自分には、実感としてよく理解できてはいないのかもしれないが。大多数の人々の目にとって魅力的に映るようなものなのだろう。彼の言葉の中で多用されている、夏生には理解しがたい横文字の単語のひとつひとつにも、本当は高尚で尊い意味が隠されているのかもしれない。
「お前の言葉は、……俺には時々、よく意味がわからないけど」
 見た目の美しさや、使う単語の意味は、今はまだ完全には理解できなくとも――
「……悪くないな」
 彼の強さと、「人を助ける」という言葉の真っ直ぐさは、自分にとって好ましいものに映った。
 今は遥か遠く高い位置にあるけれど、いつも視界の端に捉えておきたいと感じる、道標のようなものに。
「? ありがとう」
 思ったままの言葉を口にすると、春日江は無邪気な表情で笑った。
 微かに首を傾げているところを見ると、俺の言葉の意図――というより、そこに籠ってしまった感情――は、恐らく彼に正確に伝わってはいないのだろうが、別にそれで構わなかった。
 ――こんな子供のような憧れや羨望が正確に伝わってしまったらと考えると、そちらの方がかえって恥ずかしい――なんて、そう考えること自体が子供じみているのかもしれないが。


 大通りに差し掛かり、視界が一気に開ける。
「夕暮れだね」
「……ああ」

 地面を埋め尽くす瓦礫の山と、立ち並ぶ廃墟。
 そのずっと先に、夕日で赤く染められた『新東京』の街の姿が見えた。辺り一面に高い鉄条網が張り巡らされ、遠くに見える工場の煙突は身体に悪そうな黒い煙を吐いている。
 十七年間の記憶を掘り起こしても、街を形作る建物の造りは皆無機質か無軌道かの二択で、いつかの幼い日に母親に見せられた絵本の中の街並みとはまるで違う。

 どこもかしこも壊れかけていて、寂しげで、取り残された街だ。――けれども。

「……綺麗だな」

 ――あの街で、人が生きている。そして自分はこれから、それを助ける手伝いをすることが出来る。
 その事実があるだけで、夏生の目には目の前の風景が何よりも美しいものに映った。





 
 

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