EX:A Midsummer Night`s Dream



 闇の中を踊る雨粒が冷えた身体を叩く。


「はあ!?」
「ひっ」
 土砂降りの雨の中、背後から聞こえてきた怒鳴り声にびくりと肩を震わせる。

 前触れなく荒げられたその声色に驚いて背後を振り向くと、声の主である青年――柊は、手元の小型通信機を危うく押し潰しそうな勢いで握り締めていた。つい先程までは億劫そうに細められていたはずの橙色の瞳は大きく見開かれて、その表情には明らかな怒気と焦りの色が見える。
「ふざけないでくださいよ、」
 ――これは、何かあったな。すっかり雨に濡れてしまった紫の髪をぐしゃぐしゃと掻き上げる男の姿を一瞥し、秋人は小さく、しかし深い溜め息を吐いた。

 二〇二三年六月二八日。何やらトラブルに見舞われたらしい監視塔から『異形』の討伐任務が舞い込んだのは、午後八時を少し回った頃のことだった。慌てて飛び出した『外』の世界は季節柄なのかじっとりと鬱陶しい悪天候で、「さっさと終わらそう」と憎々しげに吐き出した柊くんの言葉に深く頷いたのを覚えている。
 到着して早々に「私は一人でいいよ」と駆け出して行った春日江くんと別れた僕と柊くんは、彼の進路と反対方向に捜索を進めていくことを決め――降り続く雨に気力を奪われつつも、どうにか敵の姿をこの目に捉えようと歩き回っていた。

 柊くんの通信機に、機関の職員――彼の乱雑な受け答えを聞くに、恐らくは助手の蕪木さんだろう――から連絡が入ったのは、その最中だった。
『……、――……!』
「はあ、ええ……嘘でしょ?」
『――、……』
「……仕事が雑すぎませんか、それって?」
『…………』
「はい……はあ、……。……了解」
 吐き捨てるように言って通信を切った青年の背中に、恐る恐る「どうしたの」と声を掛ける。話が終わったことで頭が冷えたのか、先程より少し落ち着いた様子の柊くんは、はあ、と重く気怠げな溜め息を吐いた。
「……先週、血液売買の所で引っ掛かった奴が居るって聞いたでしょ」
「ああ、」
 血液売買。僕はあまり近付いたことがないけれど、境界付近の街にそういった業者がよく出入りしているという噂は耳にしたことがあった。
 自分の血を売って、その対価として現金を得る。文字通り身を削るような行為だ。生活に必要な資金を稼ぐための一手段であることは分かっているけれど――生きる為にも少しずつ命を損なっていかなくてはならないなんて、何だかとても非生産的な気がする。

 その業者に血液を提供した人間の中に、適合者――新たな『強化人間』候補になりうる人物が見つかったのだという話は聞いていた。
 年齢も身元も分からない。血液検査の結果から推測できたのはその人が健康な、恐らくは男性であるということだけで、それ以外の情報はまるで判明していなかった。
「今日辺りに機関に連れて来るかも、って言ってた人のことだよね」
「そう」
 血液売買に関わっていたということは、『彼』はきっと境界付近の街で暮らしていた人間なのだろう。そんな彼と数カ月前まで普通の学生として生活していた自分などが上手く付き合っていけるだろうかと、顔合わせの前から少しだけ不安に思っていた所だった。
「……えっと、」
 気を抜くと脇道に逸れそうになる思考を元の軌道に戻して、不機嫌そうに通信機を握り締めた柊くんに向き直る。
「証明書の番号は控えてあるから、お金を引き取りに来た時に業者が声を掛ける、って手筈だったはずだけど」
 実際には『声を掛ける』というより『連行する』という表現の方が正しいような事態になるのだろうけれど、それを直接口に出して言うのは何となく躊躇われた。いつも通りオブラートに包んだ言葉で確認すると、柊くんは「そう」と疲れ切った表情で頷く。
「その人がどうかしたの?」
 先程の連絡は、彼がもう到着したという知らせだったのだろうか。それだけの話なら、僕達が機関に帰った後にでも知らせてくれればよかったのに。
 ――もしかして、職員の方達だけでは手に負えないようなとんでもない人だったのだろうか。施設の中で暴れたとか――そんな呑気な想像が頭を過った所で、地の底から響くような重々しい声が耳に届いた。
「……逃げた」
「えっ」
 告げられた事実を受け止めきれず相手の顔をまじまじと見返すと、青年は硬い表情で更に言葉を続けた。
「……それで、まだ分からないけど……、『境界外』に出たかもしれない」
 付け加えられた情報に目が点になる。
 ――彼が『外』に? 業者から逃走するにしても、わざわざこんな――いつ異形と遭遇するか分からない場所に逃げ込む意味が分からない。境界付近で暮らしていたなら尚更、身を隠す場所など他に幾らでも知っているだろうに。
「な、なにがどうしてそんなことに……?」
「俺が知るわけないでしょ」
 通信機をベルトケースに仕舞った柊くんは、「詳しいことは後で聞くけど」と冷めた表情で吐き捨てた。
「……何にせよ、此処で死なれるわけにはいかないし。……仕方ないな」
 突然の知らせに動揺して棒立ちになる僕をよそに、柊くんはすっかり気分を切り替えることに成功したようだった。先程までの怠惰な様子が嘘のように、「急ぐよ」と一言だけ口にしてすたすたと歩き出す背中に慌てて追従する。
「どうするの、」
「探すしかないでしょ。……春日江にも連絡して」
 少し抑えた速度で駆け出した青年の姿を懸命に追いながら、秋人は必死で通信機のダイヤルを操作した。


 死んでしまっているのかと思った。

 汚れた床の上に倒れ伏した男の腹部は血と泥で赤黒く染まっている。横向きに倒れた身体はぴくりとも動かなくて、時折微かに上下する肩の振動だけが彼がまだ呼吸を止めていないことの証明だった。

 ――『新人君を見つけたよ』と。

 毎度の如く重力を感じさせない声色の通信が僕達の元に届いたのは、僕と柊くんが『彼』の捜索を始めてから数十分が過ぎた頃のことだ。慌てて現場へと向かった僕達を迎えたのは、崩れ落ちかけた廃屋の入口にしゃがみ込んだ春日江くんと、その中で横たわる見知らぬ男性の痛々しい姿だった。
 辛うじて生きてはいるようだけれど、襤褸切れのようになった衣服に染みた血液の量がその損傷の酷さを物語っている。
 雨と土の匂いに混じって仄かに漂ってくる鉄臭い香りに怖気づいて、咄嗟に屋内に足を踏み入れるのを躊躇した。戸口に立ち尽くす僕をそっと横に押し退けた柊くんが倒れた男性に歩み寄ると、板張りの床はきしきしと耳障りに鳴る。
「……き、救護隊に、」
 胃の辺りから込み上げてくる吐き気を堪えて訴えると、春日江くんは事も無げに「大丈夫だよ」と口を開いた。何処がなんだと口に出せない反論を嘔吐感と共に喉の奥にぐっと押し留めていると、彼は此方の反応を気にした様子もなく淡々と続ける。
「ほら、見て」
 ――言うが早いか、春日江くんは男性の身体に張り付いていたシャツを躊躇なく引き剥がし、その裾をぺらりと大きく捲った。
「!」
 その下から現れるであろう傷口の深さを直視したくなくて、半分反射のような速さで顔を背け――そこで、えも言われぬ罪悪感に襲われた。
 今一番辛い思いをしているのも、きっとすごく怖い思いをしているのも、決して自分ではない。怪我をした『彼』の方なのだから。こんな風に一人だけびくびくした態度を取っていては彼に失礼だろう。
 ――こんなことで怖がっていては駄目だ。
「……っ」
 数秒間の葛藤の後、ゆっくりと決意を固めて瞼を持ち上げた秋人の瞳に飛び込んできたのは、しかし予想とは全く異なる光景だった。

 鼻腔に届く血液の匂いと、服を染める生々しい赤の色に反して――横たわる男性の腹部にはかすり傷の一つもない。

「……怪我、してない……?」

 思わず口からついて出た言葉に「うん」と朗らかな声が返ってくる。
「さっき、ドクターから連絡があってね」
「……もしかして、此奴……」
「詳しい経緯は聞いていないけれど、」
 何かに思い当たったらしい柊くんが、苦虫を噛み潰したような表情で額を押さえる。未だ倒れ伏したままの男性をそっと指差した春日江くんは、その言葉に答えるようににっこりと微笑んだ。
「――彼はもう『強化人間』だ」

 ――それは僕達にとっても、『彼』にとっても間違いなく幸いな報告で――同時に、『僕』にとっては、■■■■に等しいものでもあった。


「傷口は無事に塞がっているし、脈も正常だった」
「他は?」
「熱は少しあるみたいだけれど、死ぬほどではないよ」

 簡素な言葉で最低限の伝達事項だけを伝えると、春日江くんは「私はもう少し周辺を巡回するよ」と言い残し、軽やかな足取りで外に出て行ってしまった。
 湿気た狭い廃屋の空気は何処となく重くて、長い時間居ると大した運動もしていないのに頭がぼうっとしてくるような気がする。

 去り際の春日江くんの言葉を確かめるように、柊くんは手袋を脱ぎ取った右手を青年の額へと伸ばす。雨に濡れてじっとりと顔の上に落ちていた黒髪がぱさりと払われて、ずっと隠れていたその横顔が夜の薄闇の中に晒された。漸く露わになった男性の相貌に、貧弱な心臓が思わずどきりと跳ねる。
 ――若い。僕や春日江くんよりは随分大人びているけれど、まだ青年と呼んで差支えないような顔立ちだ。
「……」
 眠っていれば本当に、普通の青年のように思えるのに。そんな彼が、この人が――今日から生活を共にする、新たな『強化人間』なのだと実感すると。何だか妙に理不尽に思えるような、それでも納得が行くような、そんな不可思議な気分だった。

 暫くして青年の額から手を離した柊くんが、はあ、といつも通りの重い溜め息と吐く。
「……あいつにも、雨を避けるぐらいの知恵が残っててよかった」
「え? っ、……ああ、うん、そうだね」
 ――春日江くんが彼を廃屋に連れ込んだことを言っているのだ。やはり頭の中が何処かぼんやりとしてしまっているようで、そんな簡単なことに気が付くのにも数秒の時間を要した。
 いくら『強化人間』の身体を手に入れているとは言っても、ここまで血を失った状態でいつまでも雨に打たれていては体調を崩してしまうだろう。大事にならなくて良かったと胸を撫で下ろして柊くんの方を振り返ると、小屋の壁に体重を預けた彼は何やら難しい表情で腕組みをしていた。
「……どうかした?」
「……いや、別に」
 ふっと長く息を吐いた柊くんは、気を取り直したように一度伸びをすると、床に横たえていた青年の身体をぞんざいに肩に担いだ。
 まるで重力を無視しているかのように現実味が無い光景に少しだけ眩暈がして、後を追いかけるのが一瞬だけ遅れた。

「戻るよ」
「……わかった、」
 簡潔で分かりやすい指示になるべく穏やかな声色で返事をして、未だ雨の降り続く『外』の世界に今一度身体を投げ出す。

「……早く、行かなきゃね」

 肌を撫ぜる雨と、肺に吸い込んだ空気が温い。


 夏が近かった。
 
 

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