優しい人でいたかった。

 力の強い人になりたくて、頭の良い人になりたくて、口の立つ人になりたくて。
 けれど、自分はそのどれでもない。それを、誰よりも自分自身こそが正確に把握している。

 優しい人に、なりたかった。


4:Light, seeking light, doth light of light beguile;

4-1



 ガツンと岩が割れるような凄まじい音と共に目を開けて、最初に見えたのは殺風景なコンクリートの天井だった。

「……」
 一つ、二つと瞬きをして、此処が確かに現実の世界であることを確かめる。
 ジリリリと止む気配なく鳴り響く鈴の音の中で暫し固まっていると、ベッドの脇へと投げ出した右手が何故かじんじんと痛んでいることに気が付いた。疑問に思い其方に視線を遣ると、手の甲からぱらりと何か白い粉のようなものが落ちるのが見える。
 ――これは何だろう。未だはっきりとしない頭を無言で捻っていると、近くの壁からぱらぱらと同じ色をした粉が零れ落ちてくるのが視界に入る。粉塵を辿った視線はすぐにその出所に辿り着いて、目にした夏生は静かに瞠目した。
「……」
 コンクリート張りの壁にはたった今出来たかのような打撃痕と亀裂が走っており、そのヒビから粉々に砕けた壁の表面が零れ落ち続けていた。
 起床ベルの音に驚いて半覚醒状態に陥った自分が、寝返りの拍子に壁を殴ったらしいということを認識したのはそれから数十秒が経過してからのことだった。

「…………。朝か」

 強化人間・鎧戸夏生が此処――『特務機関』に居を移して、今日で三日目の朝になる。


「普通、三日連続で寝ぼけてコンクリの壁殴ったりする?」

 意を決して共有スペースに続く扉を開けた瞬間、この世の不機嫌を一つに凝縮したような声に迎えられて思わず顔を伏せる。
「どう考えても普通じゃないでしょ、普通じゃないレベルのバカ」
 中央のテーブルを囲むように配置された二つのソファ。その一つを完全に陣取った、如何にも怠そうな表情をした青年――柊が、此方をじとりとした目で睨んでくる。
「……」
 その眼光だけは昼間と同じ鋭さを保っていたが、皮張りのソファに半ば横たわるような姿勢で全体重を投げ出したまま放たれる言葉に気迫は全くない。あまりにも覇気のないその姿に思わず黙り込んでいると、氷水のように冷えた声が次々と弾丸のように飛来してくる。
「何? 文句ある? こっちはお前の近所迷惑な騒音で朝から叩き起こされて疲れてるんだ、って……はあ……」
 しかし柊は言葉の途中で堪えきれないという様子で欠伸をすると、その後は続けて罵る気力すらも失くしたようで、「無理」と呟きながら再びソファに倒れ込んだ。
「……いや、悪かった」
 ――俺が寝惚けて壁を殴打したのは起床のベルが鳴るのと同時だったし、どの道目覚めなければならないのは変わらない。あの打撃音で起きられたのなら、それはそれで柊にとっては都合が良かったのではないだろうか。
 そんな疑問がふつふつと湧き上がってきてはいたが、寝起きの頭でもそれをそのまま口に出すことの無益さは分かる。朝には左程弱くないが、態々自分から再び言葉の集中砲火を浴びにいく程の元気は無い。
「本当、しっかりしてよね。お前はただでさえ普段から寝ボケてるようなもんなんだから……」
 これはこの三日間で気付いたことの一つだが、この男はどうやらあまり朝に強くないらしい。普段から朗らかな態度でいるタイプではないが、早朝はその三割増しで機嫌が悪い。タオルを肩に掛けている所を見るに既に洗顔は済ませたのだろうが、寝癖の方はまだ直り切っていないのか、普段から跳ね気味の髪の毛が所々余計に上を向いている。
 その姿を見て、夏生は自分も一先ず身支度を済ませようと洗面所に向かうことにした。


 自宅に居た頃より遥かに広い洗面台と鏡に向かい、少し寝癖のついた髪を片手で梳きながら歯を磨く。

 ――この地下で暮らすようになって、今日で三日目。つまり俺が一度境界外で死にかけて、あの人の手で『強化人間』になった夜からは計四日が経過したことになる。
 あれ以来、俺を隊員に含めた境界外への出動命令は未だ無い。他の三人は任務だ検診だと言ってこの居住エリアを出ていることも多かったが、特にそういった呼び出しもない俺は、ただ先程の共有スペースや割り当てられた個室であまり意味のない時間を過ごしている。一日中屋内に居ることに慣れていないこともあり、一応一人で腹筋や腕立て伏せ等を繰り返してはいるものの、どうにも身体が鈍りそうで手持無沙汰だった。
 此処からでは『外』がどうなっているのかはよく分からないが、先日のような放送が流れてこないということはそれ程緊急を要するような事態にはなっていないのかもしれない。そうであるならば本当に――何よりだ。ただ、何もせずとも一日三回食事が出てくる生活を送っている自分というものに対しては、どうしても罪悪感と焦りが募る。
 鏡に映る自分の顔が、心なしか以前より随分と健康的な顔色に見えることもその焦燥感を加速させていた。
「……」
 実の所、すること――というか、どうにかしなければならない課題はあるのだが、解決方法が自分ではよく分からない。

 ぼんやりとした心地で歯を磨き終わり、口を濯ごうとラックに掛けてあったコップに手を伸ばす。何も考えずに握りしめた所で、手の中で何か柔らかいものが潰れる感覚があり、夏生は自分が本日二回目の失敗をしたことを悟った。
「……やってしまった」
 プラスチックの容器は強い力でぐにゃりと押し潰され、見るも無残な姿に変形してしまっている。

 『強化人間』の身体能力――金属をもへし折るような怪力を、俺は未だ日常生活で完全に制御することが出来ていなかった。


「おはよう鎧戸君。今日も良い打撃音だったね!」

 一通りの身支度を終えて共有スペースに戻ると、出入口の方から聞き慣れた明るい声が聞こえてくる。
「……春日江」
 少し遅れて「おはよう」と挨拶を返すと、春日江は昼間と特に変わりない爽やかな笑みを浮かべたまま、「表に朝食が来ていたよ」と告げてくれた。ガラガラと後ろ手に引いている金属製のカートには、春日江の言葉通りラップに包まれた四人分の食事が乗せられている。
 此処――特務機関での食事は一日三回と定められているようだが、自分達で料理をするというわけではない。調理されたものが決まった時間にエレベーターの前に置かれているので、それを残さず食べていればいいのだと、初めて此処で朝を迎えた時に阪田から説明を受けた。
 置かれている、ということは置いてくれている人間が居るのだろうけれど、そうした職員と鉢合わせをした経験は今の所無い。

 ――そういえば。パンやスープが載ったプレートをテーブルに運び、ソファに腰かけた所で、ふと今朝はまだ彼――阪田の姿を見ていないことに気が付いた。
「……阪田は……まだ部屋か」
 やはり春日江と柊の二人しか見当たらない室内を見渡して首を捻ると、漸くソファから起き上がって伸びをしていた柊が「ああ」と怠そうに相槌を打った。
「そろそろ起きてくるんじゃない? あの子も朝強くないし……」
 投げやりな調子で語られた言葉に「そうか」と頷きかけた丁度その時、カチャリ、と控え目に扉の開く音が聞こえた。

「あ、」
 ――ゆっくりと戸を開けて部屋から出てきたのは、確かに自分達が予想していた通りの人物だった。

「――阪……田?」
 しかし、その姿は常の彼の様子とは少し異なっていた。
 縁の細い眼鏡は左耳にしか掛かっていないし、薄い茶色の髪は頂点の辺りでぴょんぴょんと勢い良く跳ねている。やや着崩れた部屋着といい、いかにもたった今ベッドから起き上がったばかりというような風体だ。目は一応開いているものの、その焦点は何処かぼんやりとしていて視線が合わない。

 表情も何処か覇気が無く、虚ろで――これは、寝惚けているのだろうか。会って数日しか経過していないせいもあり、焦りと怯え、それから苦笑以外の表情が浮かんだ彼の顔を見たことがない自分の目にはかなり物珍しく映った。

「ああ。おはよう、阪田君」
「……」
 普段ならば怯えつつも即答しているであろう春日江の声にも返事をしないまま、阪田はとぼとぼとした足取りで数歩洗面所の方向へ進み、その場で力尽きたように立ち止まった。
「……阪田?」
 「寝不足か」と重ねて声を掛けてみても反応が返ってくることはなく、青年はぼうっとした表情で固まったままだった。
 ――これは本格的に体調不良か何かではないだろうか。ひとまずもう一度話し掛けてみようかと口を開いたが、その直前で遮るように柊の揶揄うような声が割り込んできた。
「まあ、目覚ましがアレじゃあね」
「え、……あれのせいか……?」
 そうであるならば悪いことをした。考えてみれば、俺が三日連続で寝惚けて殴打してしまったあの壁――あれを隔てた隣室の住人は、確か阪田だったような気がする。さぞ音が響いてうるさかったことだろう。

 反省を込めて「悪かったな」と謝罪すると、阪田はその言葉にはっと弾かれたように顔を上げた。
「えっ。あっ、ごめん何だった!?」
「その、……俺のせいで目覚めが悪かっただろうと……」
「ち、違うよ! 確かにちょっとびっくりはしたけど、……って……」
 此方に向かって弁解する途中で、阪田は自分の置かれている状況に疑問を持ったようで、きょとんとした表情でぱちぱちと二三度瞬きをした。それからソファに座る三人の顔を順繰りに見、部屋の中を見回し――そこで完全に目が覚めたのか、恥ずかしそうに右手で顔を覆った。
「……ご、ごめんなさい。寝起きで頭がぼーっとしちゃって……というか、半分寝てたかも……」
 阪田はそこで朝食が乗ったテーブルに目を遣ると、「遅くなってごめん」と申し訳なさそうに頭を下げた。「いいから顔洗って来れば」と返した柊の声に顔を上げると、此方に向かってばつの悪そうな苦笑いで告げる。

「すぐに顔洗って……あ、あと水も取ってくるね!」
「あ、……悪いな」

 ――俺がやるからいい、と言おうかとも思ったが。阪田はどこか焦ったような様子で、引き留める間もなくばたばたと洗面所の方へと走り去っていった。


   
 

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