相当に急いだのだろう。予想以上の速さで水入れを片手に戻ってきた阪田が席に付いたのを確認すると、程なくして静かに行儀良く手を合わせた春日江が口火を切った。

「いただきます」
「あ、いただきます!」
「……いただきます」
 柊までもが律儀に食前の挨拶を口にしたことに少し驚きつつ、夏生も遅れて「いただきます」と復唱する。相変わらず全く息の合わない号令のもと、四人はそれぞれにばらばらと朝食に手を付け始めた。

 ――別に、全員が揃ってから食べ始めなければならないわけでもないのだけれど。朝食はほぼ四人同時に済ませることが多かった。
 これまで家族以外の人間と食卓を囲む経験が無かった夏生はそれに少し戸惑ったものの、この習慣には『食事を通して親交を深めよう』等という大義名分があるわけではなく、ただ単に片付けを一度に済ませたいという理由で生まれたものなのだと気付いてからはあまり気負うこともなくなった。
「……」
 現に今も取り立てて会話はなく、皆黙々と朝食を口に運んでいる。
 時折微かに聞こえる溜め息と欠伸の音は、丁度俺の向かい側で食事を取っている柊のものだろう。その隣の阪田は先程から一瞬船を漕いではスプーンを取り落としかけて目を覚ます動作を繰り返しており、朝の様子と合わせて、やはり重度の睡眠不足なのではないかと窺わせた。

 硬く乾燥したパンを水で喉に流し込んだ所で、夏生はふと思い立ち、丁度隣に座っていた『先輩』の一人に相談を持ち掛けることにした。
「……少しいいか、春日江」
「ん、何かな?」
 春日江は慌てることなく口の中の食物を嚥下してから返事をすると、先程まで齧っていたパンを両手に持ったまま小首を傾げる。その呑気で何処か子供じみた仕草に少し出鼻を挫かれつつも、夏生は尚諦めずに言葉を続けることにした。
「……朝の話なんだが」
「どの話?」
「壁を……、その、この身体になってから、力の加減が上手くいかなくて、……という、話を」
 そこまで話すと、春日江は漸く納得したようにうんうんと頷く。
「ああ、その話か」
 そしてそのまま手にしていたパンを再び口にし始めたので、夏生はこの話を続けるべきなのかどうか少し迷ってしまった。音を立てずに咀嚼する姿を見つめながら固まっていると、暫くして最後の一口まで無事飲み込み終えたらしい春日江が、「それで?」と明るい声で催促してくる。
 ――今の時間に話していて良かったのか。相変わらずこの男のペースは掴みにくい。
「その……何か、コツだとか……そういうものがあれば教えてほしい」
 このままでは数週間後には壁ごと崩壊させてしまいかねない。『強化人間』としての生活に関することならば、此処で一番の古株である春日江に尋ねるのが適当だと思いついたのだった。
 他の二人――阪田と柊には、今の時間帯に尋ねてもまともな回答は返って来ないだろうし。そうも考えて春日江を頼ってみたのだが、当の本人はあまりピンと来てはいない様子で首を捻った。
「私は最初から制御出来ていたからね。コントロールできない、という状態がよく分からない。君の参考にはならないかもしれないな」
「……そうか」
 何となくそうかもしれないと思ってはいたが。春日江は特務機関に来た最初――確か、十年前と言っていたか、その頃から既に問題なくこの身体を使いこなせていたようだ。
 ――そうなると、やはりこれは『強化人間』の身体がどうこうではなく、単に俺の脳味噌の出来の問題なのだろうか。考え込んだ夏生が暗い気分になっていると、春日江は思い出したように「あ、」と声を上げた。
「でも君も、初日に比べれば随分と進歩しているだろう?」
「何のことだ?」
「一昨日より昨日、昨日より今朝の方が打撃音が小さかった」
「……」
 それは進歩と呼んでいいものなのだろうか。結局壁の罅を増やしてしまっている時点で微々たる違いに思えたが、春日江は「徐々にコントロールできるようになっている、ということだよ!」と満面の笑みで説明してくれた。
 気休めのような解説だったが、春日江から言われると何となく尤もらしいものにも思えた。彼の気質を考えると、恐らくは気遣いで励ましてくれているわけではなく、本心から考えて出た言葉なのだろうと推測できるからかもしれない。
「……努力する」
「そう。今後の課題だね」
 そう微笑む春日江の目の前の皿は、いつの間にかパンだけでなくスープ皿からコップまで一つ残らず空になっていた。足だけでなく食べるのまで早いのか。
 ――俺も早く食べ終えてしまおう。
 まだ残っているスープを掬おうと、スプーンに手を伸ばした所で、突然頭上からザアザアと砂嵐のような音が聞こえた。

『……、――全員、起きてるか?』

 三秒ほど続いたノイズの直後、此方の様子を伺うような男性の声が部屋中に響き渡る。

 この部屋に居る誰のものでもないその低い声は、初日にも聞いた放送と同じく、天井の隅に取り付けられたスピーカーから流れてきているようだった。
 突然流れた音声に驚いて目が覚めたのだろう。テーブルに顔が付きそうな程前傾した姿勢で寝かけていた阪田がバタンと手を付いて起き上がり、その衝撃で彼の側にあった食器がカタカタと揺れる。
「えっ、あっ、はい……! あっ」
「……はい」
 続けて口を開いた柊は、倒れかけた阪田のコップを片手でぱしりと押さえながら、いかにも面倒臭そうな表情で「起きてます」と声を上げた。最後に春日江が「全員居るよ」と明るい声で返事をすると、スピーカーの声は少し沈黙した後で言葉を続ける。
『春日江、……十分後に司令室へ。阪田君は……定期検診の日だ、食事が終わり次第検査室へ行ってくれ』
「了解」
「ハイっ、分かりました!」
『柊は待機。自由にしていていいが、呼び出しが掛かる可能性がある。居住エリアからは出るな』
「……了解です」
 三番目に指示を受けた柊が渋々といった調子で返事をした後、スピーカーの向こうからは暫く何の声も聞こえなくなった。
 ――やはり今日も俺は待機だろうか。自分の名前だけが呼ばれなかったことに疑問を抱きつつもスピーカーの方へ意識を傾けていると、少しの雑音の後、再び先程と同じ男性の声が室内に流れ込んでくる。
「……――それで、鎧戸君には……少し確認を取りたいことがあるから、その場で待機していてもらえるか」
「……!」
 この場で待機、ということは、スピーカーの向こう側に居る彼の方が此方に会いに来るということだろうか。予想外の指示に夏生が暫し瞠目していると、声は脳裏を過った疑問に答えるように「三十分以内には向かう」と付け加えた。
「……ええと、了解、……です」


 食事と片付けを終えた柊が自室に戻り、他の二人がそれぞれ呼び出された場所へ出かけていくと、共有スペースには夏生一人だけが取り残された。

 ――思えば、此処に来てからの数日間、携わる任務の無い自分はずっとこの居住エリアに閉じ籠りきりで、隣室で暮らす強化人間の三人以外の人間と顔を合わせることはなかった。他にも職員が多数居るということは三人から聞かされていたが、直接彼らと接触したことは未だない。
 少し緊張しながらソファに座って待っていると、数分後にコンコンと出入り口の扉がノックされる音がした。

 ガチャリと音を立ててドアが開いた瞬間、室外から流れ込んできた空気の中に、ほろ苦く仄かに煙たい匂いが混ざったのを感じた。恐らく匂い自体は左程強いものではないのだろうが、強化人間化によって鋭さを増した嗅覚はふとした時に周囲の環境の変化を敏感に拾ってしまう。
 この地下の中で触れるのは初めてだけれど、街角ですれ違う人垣の中では確かに嗅いだことのあるような、これは――煙草の匂いだろうか。漂ってきた香りの正体に気付いた頃には、コツコツと聞き慣れない硬質な足音が目前まで近付いて来ていた。

「鎧戸夏生君だな、」
 ――背の高い人だ、というのが第一印象だった。

「あ……」
 夏生が顔を上げると、部屋に入ってきた赤茶色の髪の男性は何処か緊張したような面持ちで此方に会釈をした。
 身長は、恐らく自分よりも少し高い。百八十センチは優に超えているだろう。濃緑のジャケットを纏った身体はかなり体格が良く、短く揃えられた髪と合わせて、何処となく訓練を積んだ軍人のような硬い雰囲気を漂わせている。あの人――夏生にとっての「命の恩人」である白衣の男も高身長ではあったが、その体格は薄く痩せ型であったためか、彼と初めてまともに顔を合わせた時はここまで「大きい」という感想を抱くことはなかった。
「……はい。えっと……」
 挨拶を返そうと思ったが、自分はまだこの人の素性も名前も知らない。どういった態度で話せば良いのか悩んでいると、男は此方の戸惑いを察したのか、「ああ、自己紹介を忘れていた」と申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「蕪木二郎だ。今朝もこの前も、碌な挨拶も無しにすまなかった」
「……『この前』?」
 何のことだろうと疑問を口にしようとして、声を発する直前に彼の言わんとしていることに思い当たった。
 初めてこの部屋を訪れたあの日にも、今朝と同様にスピーカーを通す形で四人で『境界外』に行けという伝達があった。あの時の声の主もこの男性だったのだろう。
「……いえ、気にしないで……ください。あー……蕪木、さん」
 慣れない敬語を無理に引き出して首を横に振ると、男性――蕪木は顔を上げて、何処か安堵したような、柔らかい表情で頷いた。
 先程よりも張り詰めた雰囲気が解れた蕪木の様子に、夏生も漸く少し肩の力が抜けるのを感じる。その勢いで着席を薦めてみると、蕪木は「ありがとう」と微笑んで抱えていたファイルをテーブルに置き、静かに真向かいのソファに腰を下ろした。

「悪いな、あの時は少し立て込んでいて。俺は此処の職員で、ドクター……君も会ったことがあるだろう。あの人の助手のような仕事をしている。まあ、事務みたいなものだが」
「事務……」
 外見からして政府の軍人か、さもなくば護衛や警備員の類の職に就いている人間だと思い込んでいたが、どうやらそれは此方の早とちりだったらしい。
 そうは言っても、あの人――出会い頭に倒れている人間を蹴り飛ばして来たり、『強化人間』の能力を実証する為とはいえ無断で他人の腕を切りつけてきたりする男の助手業務だ。それらよりも更に体力の要る仕事であってもおかしくはないが。
「それと、君達の身の回りの世話をする担当でもあるから……何か不便なことや、買ってきて欲しい物があれば気軽に言ってくれ。全ての要望を叶えられるとは言えないが、可能な限りは善処しよう」
 思いの外親切な申し出に内心少し驚いたが、今の所此処――特務機関の環境自体には何の不便も無い。夏生が黙って頷くと、蕪木は安心したような表情で頷き返した後、少しの間を空けて再び口を開いた。
「……それで、今日は……」
 恐らく、ここからの話が本題なのだろう。またしても何処か硬質なものに変わった男の声色に、自分の心中にも幾ばくかの緊張感が戻るのを感じながら、夏生は姿勢を正して次の言葉を待った。

「君に説明したいことがあって来たんだ。……君の身柄の扱いと、ご家族への通告のことで」

「……家族……」
 異形のことや『強化人間』としての生活の方に気を取られてはいたが、こちらもここ数日の間ずっと頭の片隅で気に掛かっていた事柄ではあった。

 四日前――六月二十八日。『強化人間』として二度目の生を受けたあの日から今に至るまで、母と姉の居る自宅には一度も戻っていない。心配を掛けているであろうことは分かっていたが、連絡する手段もなければ、今の自分が置かれている状況を上手く伝える言葉も思いつかなかった。
 ――異形に殺されかけたがぎりぎりの所で蘇らされて、付いた傷がすぐさま塞がる身体に生まれ変わった? ありのままを説明したら此方の正気が疑われてしまいそうだ。
「事後報告になってしまって悪いが、君の身元を少し調べさせてもらった。ご家族と話をさせてもらうためだ」
「! ……母と会ったんですか?」
「ああ、それとお姉さんにも……『特務機関』の存在は明かさず、あくまで政府の一職員として、だが。君の身柄を此方で預かる承諾を取りたくて」
「……」
 家族に承諾を、という言葉を聞いて、夏生は思わず黙り込んで自分の母と姉の顔を頭に思い浮かべた。
 ただでさえ普段から過保護な所のある二人だ。特に母は――どんなに家計が困窮している時でも、俺が稼ぎ手として討伐隊に志願させてくれないかと提案すると、卓袱台を返すような勢いで叱って反対してくるような人だった。突然『強化人間』の話を持ち出して息子を――俺を預かると説明しても、彼女達がそうすんなりと納得してくれるとは思えない。
 ――どんな風に説得してくれたのだろう? そんな疑問が此方の表情に出ていたせいか、男は少し緊張した面持ちで言葉を続けた。
「勿論、事実をありのままに伝えるわけにはいかない。君の身柄は政府内の病院で預かっている、ということになっている」
「病院?」
「……『強化人間』の存在を一般市民に明かすことはできない。代わりに、君は新型の伝染病に罹患していることにさせてもらった。それが採血の時に判明し、そのまま患者として収容された、という筋書きだ」
「……なるほど?」
 すらすらと耳に流れ込んできた説明を頭で噛み砕くのに少し時間が掛かったが、大まかな内容は何となく理解出来た。
 俺が一度死にかけたことや『強化人間』に関することは二人には全て伏せ、政府が管轄する病院に患者として入院したと偽る、という話らしい。
 ――仕事終わりに血液販売業者の所に対価を取りに行くことは家族にも伝えていた。彼女達が辿ることのできる俺の足取りはそこで途絶えているだろうし、その際に政府の医療機関の人間と接触したというなら一応の筋は通る。ような気がする。実際に信じてもらえるかどうかはまた別の話だが。
「今の所命に別状は無いが、まだ完治する方法が確立されていない病なので、治療も兼ねて臨床研究に協力してもらいたい。感染の危険があるのでご家族でも面会は出来ない。パニックが起こるのは避けたいので、このことは内密にしてほしいとも伝えた」
「……、はあ……」
「研究に協力してくれたという名目で、ご家族には幾ばくかの謝礼も支払わせてもらう。その一環として、これは今回断られてしまったんだが……もしも必要なら、今のご自宅よりもう少し治安の良い所に、新しい住居を用意させてもらうこともできる」
「……」
 矢継ぎ早に告げられた言葉を受け止めることに必死になってしまい、上手く相槌を打つことができない。
 家族には、治療の為に長期の入院をすることと、病気が感染するから直接会うことができないという理由を説明して、俺本人からの連絡がないことへの辻褄を合わせた。それから、そう――

「……謝礼?」
「ああ」
 これまでの話は全て『強化人間』や特務機関の存在を隠すための嘘偽りだったけれど、これに関しては実際に現金を家族に支払ってくれるということだろうか。
 それ自体は願ってもないことだったが――それは、其方に何の利益があってそんなことをしてくれるのだろう?

「要するに、口止め料ってこと」
 そんな疑問が頭を過ったその時、聞き慣れた冷たい声が背後から響いてきた。

「柊、」
 振り返ると、部屋着からいつもの支給された服装に着替えたらしい柊が奥から二番目のドア――つまりは彼の自室から出てきた所だった。部屋で身支度をし直していたのか、心なしか朝食の時より寝癖が控え目になったように見える。
「寝直そうかと思ってたのに。お前も蕪木さんも、いちいち話し声が大きいんだってば」
「……そんなにうるさかったか?」
 ――そこまで大きな声で話していたつもりはないのだが。憎々しげに呟く柊の言葉に首を傾げていると、突然の乱入者に暫し話を中断していた蕪木が苦々しい表情で口を開いた。
「……柊、口を挟むな」
「事実でしょ。聞かれたくない話ならもっと静かにやってくれません?」
 その言葉が図星だったのか、蕪木は暫し黙り込んだ後で、諦めたように深く溜め息を吐いた。その諦念と苛立ちが混じった表情を目にして、少し話に置いて行かれていた夏生も漸く『口止め料』という柊の解説が誤りではないことを確信する。
 『謝礼』という言葉で濁してくれてはいたが、暗に息子の居所についてこれ以上の詮索はするなと告げる手切れ金のようなものなのだろう。けれど、それならば――
「……そんなことをしなくても、ただ俺が死んだことにすればいいんじゃないのか?」
 元々経済的に余裕があるとは言えない家庭だ。どのような理由であろうとも、家族に幾らかでも現金が支払われると言うならそれは有難い。有難いのだけれど、逆の立場になって考えてみると、そんな面倒な手順を踏まずとも、ただ単に何も知らぬ振りを決め込んでいれば良いのではないかという疑問が残る。
 職員の時間と手間を割いてまで律儀に家族に接触する理由が分からない。遠回しにそう尋ねてみると、ドアに凭れて此方を眺めていた柊が「いい?」と小馬鹿にするような口調で切り出した。

「……『死んだことにする』って言っても死体は出ないんだから、お前は行方不明になったって扱いになる」
「ああ」
「血液販売業者の所で一悶着あったんでしょ? その場には大勢居たんだろうし、多分少しは噂になってるよ。お前の家族がそのことを知ったら、どうせ業者(そこ)と繋がってる政府が関与を疑われる……なら、下手に騒ぎ立てられる前に先手を取って接触して、『息子さんはこちらで預かってます』って宣言した方が色々と都合がいいの」
「都合がいい?」
 説明の意味が今一つ理解できず鸚鵡返しに呟くと、柊は「そう、」と投げやりな調子で相槌を打った。
「息子が何らかの……多分政府関係の事件に巻き込まれて、『死んだ』って確実に分かるならいいよ。最悪の事態はもう起きちゃってるんだから、これから何をしても今以上に悪いことは起きない」
「……」
「けど、もし本当に息子が生きてたら? 息子の身柄は相手の手の内にあるんだから、自分が何か抗議したり騒ぎ立てたりしたら、彼の待遇は悪くなるかもしれない。『この人間を生かしておくのは面倒だ』と思われたら……そういう風に考えたら、迂闊に騒いだりはできなくなる」
 回りくどい口調で語られる言葉を頭の中で少しずつ溶かしながら、夏生は先程の話を聞かされた際の自分の母親の様子を想像してみた。
 ――若い頃は看護婦をしていたような女性だ。恐らく伝染病などという説明で納得はしていないだろうが、自分が反抗すれば俺の身柄が危ういかもしれないと判断したら、表面上は「このことは内密にしてほしい」という蕪木さんの言葉にも従うかもしれない。
「『行方不明』でキッパリ諦めてくれる家族ならこんなことしなくたってもいいし、金だけで手を切ってくれる親ならわざわざ伝染病なんて下手な嘘つく必要もないんだろうけどね」
 独りごちた柊は、「話してみるまでそんなの判断つかないし」とも付け加えて深く溜息を吐いた。
「……なる、ほど……?」
「……その返事は分かってないでしょ?」
 言葉の勢いに気圧されて思わずたどたどしいものになってしまった相槌に呆れたのか、柊はいつものじとりとした目で此方を睨む。――いや、恐らく八割方は理解できているはずだ。否定の意味を込めて首を横に振ってみたが、柊から特にそれに対する反応は無く「つまり、」と再び仕切り直すような口調で切り出される。
「裏を返せば、家族の居所は割れてるんだから、お前が下手に逃げたらその人達はどうなるか分かってるよなって忠告してるわけ。分かった?」
「……。……それは、俺に言ってるのか?」
「遠回しにね。お前は年中頭が寝惚けてるバカだから気付いてなかったみたいだけど」
 ――確かに、その遠回しな忠告にはまるで気が付いていなかった。柊から指摘されるまであまり深く考えてはいなかったが、身元を調べた、そして家族に会いに行ったということは、自宅の住所から彼女達の外見や素性まで『特務機関』に完璧に把握されているということだ。
 言い方は悪いが、そうして人質のような存在を確保することで、俺が此処から逃げ出さないようにと保険をかけているのだろう。
「……ですよね、蕪木さん?」
「……」
「オブラートに包んだって仕方ないでしょ。相手に理解されなきゃ脅しなんて意味ないんだから」
 蕪木はその皮肉めいた呼びかけへの返答はせず――先程からの場の空気に頭痛がしてきたのか、こめかみの辺りを指で押さえながら、今日聞いた中で一番低い声で言葉を発した。
「……ドクターが君に話したいことがあると言っていた、落ち着いたら研究室の方へ行ってくれ」
「また? ……はいはい、分かりましたよ」
 唐突な指示に柊は一瞬顔を顰めたが、蕪木が無言で扉の方を指差し『行け』と合図すると、肩を落としていかにも面倒臭そうな声色で了承した。
 そのまま振り返ることなくスタスタと部屋を後にする彼を見送ると、室内には再び夏生と蕪木の二人だけが残される。蕪木は柊が出て行った扉を苦い表情で見つめていたが、暫くしてはっと弾かれたように此方を振り返った。

 目が合うと、蕪木はどことなく気まずそうな顔で視線を彷徨わせたが、数秒後には再び意を決したような様子で口を開いた。
「鎧戸君、……その、柊が言っていたことは……」
 先程柊に見せた厳しげな顔とは打って変わって、控え目に相手の出方を窺うような男の態度に、突然どうしたのだろうと疑問が浮かぶ。しかし此方を見つめる黄茶色の瞳に浮かんだ焦りの色を見て、夏生は漸く彼の態度が変わった原因に思い当たった。
 ――ああ、この人は俺が怒っていると思っているのか。
 そんなことは全くないのだけれど、自分は元々あまり感情が顔に出ない性質だ。この状況ではそういう風に勘違いされるのも無理はない。とはいえ、誤解はなるべく早い内に訂正しておくべきだろう。
「……その、大丈夫です」
「え?」
 先程の話を聞いた後でも――家族の居場所を把握されていることに多少の驚きはあったけれど――動揺や不安といった後ろ向きな感情は特に湧いてこなかった。
「俺の方は、特に、逃げたいとは思っていないし……」

 ――柊は、俺が此処での役目を放り出して逃走したら、無関係の家族にまで迷惑が掛かるかもしれないと言った。けれど逆に言えば、俺が此処から逃げさえしなければ何も問題はないのだ。

「だから、大丈夫です」

 強化人間になった経緯こそ成り行きのようなものだったが、『特務機関』に身を置くと決めたのは自分だ。
 誰かに強制されたわけではない。自分から此処でやっていく――異形と戦うことを決めたのだから、今更念を押された所で改めて恐怖を抱くこともない。

 柊は『口止め料』と揶揄していたが、その存在だって自分にとっては寧ろ有難いものだった。自分が居なくなってからの家族の生活が安定したものになるというならば、どんな名目で施される支援であろうと充分感謝に値する。
 此方の言葉が途切れると、蕪木は少し戸惑った表情で躊躇いがちに口を開いた。
「それは……、いや、……すまないな、ありがとう」
 続けて深々と頭を下げられて、その畏まった所作に驚きで肩がびくりと跳ねる。年上の人間から謝罪を受ける機会などこれまで殆どなかったので、何とも言えず居心地が悪い。
 ――第一、俺がこの人に謝られる理由なんて何処にもないのだ。俺個人が何も気分を害していないことを差し引いても。一連の話は恐らく組織として決定された事項であって、この人ひとりに責任があるようなことではない。
「いえ……」
 重苦しい空気をどうにか打破したくて、何か話を逸らせるものはないだろうかと部屋の中を見回していると、テーブルの上に放置されたままのファイルに目が行った。蕪木が此処に来た時に持ってきていたものだ。
「そういえば、それは……」
「? ――ああ、そうだ。これを君に渡しておかないと」
 蕪木は思い出したようにファイルを開き、その中からホチキス留めされた書類を何束か取り出した。そのまま手元でパラパラと中身を確認すると、一束一束に説明を付け加えながら此方に見える向きでテーブルの上に広げていく。
「この書類には、此処での生活に関して注意してほしいことがいくつか書いてあるから、時間のある時にでも読んでおいてほしい」
「……あ、」
「こっちの束は生活用品の申請書だ。必要なものを書いて提出してくれれば此方で用意する。次、こっちが明日の検査に関する注意書きで……」

 次々と差し出される書類の山に夏生が目を白黒させていたその時、天井のスピーカーから突然ジリリリと目覚まし時計のようなけたたましい音が響いてきた。
「……!」

『――蕪木助手、ドクターがお呼びです』

「! え、」
 聞き覚えの無い淡々とした女性の声と共に大音量のアラームは途切れ、部屋は再び元通りの静寂に包まれる。急な呼び出しに肩を大きく跳ねさせた蕪木は、凄まじい速さで手元の腕時計を確認すると「もう八時か……!」と呻くような声を上げた。
「すまない鎧戸君、後は書類の方で確認してくれ。細かいことは全てそこに書いておいたから……!」
「え」
 突然のことに戸惑う夏生をよそに、蕪木は慌てた様子でファイルを小脇に抱えて素早くソファから立ち上がった。そのままつかつかと出口の方まで歩くと、扉の前で此方を振り返る。
「……あの、」
「これから色々と大変だとは思うが、めげずに頑張ってほしい。また明日、検査室で」
 それだけを言い残すと、蕪木は半分駆けているような早足で歩き、引き留める間もなく共有スペースを出て行ってしまった。遅れてガチャリと静かに扉が閉まる音が響いて、最早完全に置いて行かれたことを悟る。

 コツコツと床を叩く金属的な足音は直ぐに遠ざかっていき、数十秒後にはもう何の音も聞こえなくなった。
「…………」

 一人取り残された夏生は、一先ずテーブルの上に山積みにされた書類の文面を目で攫ってみた。
 ぎゅうぎゅうに詰めた行間で作成された書類の束は、どれもこれもこれまであまり目にしたことも無い画数の多い漢字で埋め尽くされている。

「……。……読めない……」

 ――書類を貰ってすぐに、「漢字は分からないんです」と、正直に告白するべきだった。

 幼い頃に父親を亡くして以来貧窮した家庭で育った夏生は、中央の学校で行われているという国語教育の類を受けたことがなかった。平仮名とカタカナはかろうじて書くことができるが、漢字は自分と家族の名前、それから簡単な字以外は読むこともできない。
 蕪木にもそれを伝えようとは思ったのだが、焦りが滲み出た男の表情を見て躊躇している内にタイミングを逃してしまった。
 今後を追いかければ間に合うかもしれないが――行ってどうする? このまま書いてある内容が分からないのは困るが、多忙そうな彼に一から書類を作り直して貰うのも気が退ける。

 さっぱり意味の読み取れない書類を片手に途方に暮れていた時、背後でガチャリ、と扉が開く音がした。

 何か忘れ物をして蕪木さんが戻ってきたのだろうか。それならば事情を説明して、とりあえず明日の検査のことだけでも――
「蕪木さ……」

「――あれ、鎧戸くんだけ?」

 勢い良く出入り口の方を振り向くと、そこに立っていたのは夏生が予想していた人物ではなかった。

「蕪木さん? ならさっきそこですれ違ったけど。朝言ってた話はもう……」
 部屋に入ってきた青年――阪田は「終わったのかな」と問いの続きを口にしてから、書類の束を手にしたまま固まっている夏生の姿を見ると、何とも言い難い表情で首を傾げた。
「ええっと……。……何かあった、かな?」
「……阪田、」

 「頼みたいことがあるんだが」と藁にも縋る思いで声を絞り出すと、阪田は一瞬だけ少し目を見開いて、すぐに困ったように眉を下げて笑った。

「僕に出来るかはわからないけど……」
 
 
 

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