「――四十七、四十八、四十九、……五十」
 慎重に、数え間違えないように。
 回数を重ねるごとに、知らず真剣な声色で数えだしていた数字が愈々五十の大台に乗った瞬間、目の前でわなわなと震えていた男の身体は遂にべしゃりと床に崩れ落ちた。

「すごいぞ阪田。最高記録だ」
「……そう、っ、なの……?」
 ずるずると這うような速度で床から上半身を起こした阪田は、しかしまだ立ち上がることは出来ずにその場でぐにゃりとへたり込んだ。
 床に片手をついてぜいぜいと肩で息をする青年の背中に「お疲れ様」と声を掛けると、「ありがとう……」と無理矢理絞り出したような声が返ってくる。

「筋トレって、大変なんだね……」
 ――彼の能力の話を聞いてから一週間。お互いのことを手伝うと約束したはいいものの、何をどうすれば良いのか見当がつかなかった俺と阪田は、一先ず空いた時間に二人で考えた内容を自主訓練としてこなしてみることにした。
 あれこれと理屈で考えるよりも、まずは身体を動かすことに慣れた方が良いのではないだろうか。例え見当違いの考えであったとしても、基礎体力を鍛えること自体は後々無駄にはならないはずだ――そんな単純な思考で提案したトレーニングの内容は、夏生自身にはそれほど苦しいものではなかったが。薄茶色の髪を掻き上げた時に見えた額に滲む汗の量からして、阪田には相当に堪えたようだった。
「腹筋……のほうは、まだすこし慣れてきたんだけど。腕立て伏せはまだ……」
 「きついなあ」とどこか独り言のように呟いて、阪田は幼い顔に力ない苦笑いを浮かべる。
 そう零しつつも訓練自体は続ける気でいるのか、再び体勢を元に戻そうとする阪田の姿を一瞥して、夏生は慌てて側に置いていたペットボトルを差し出した。
「少し、休んでからの方がいい」
「でも、さっきからずっと休み休みだったし……」
「……無茶しすぎても良くないだろう」
 阪田は尚も少し逡巡していたようだったが、此方に譲る気がないことを悟ったのか、やがて観念したような苦笑いで少し温くなったペットボトルを受け取ってくれた。
 やはり多少は喉が渇いていたのだろう。控え目に、しかし勢い良く水を飲み下す同僚の姿を横目に見ながら、夏生は自分も用意していたペットボトルの蓋を捻った。冷蔵庫で冷えていた水を空のボトルに詰め替えただけの物だが、何も飲まないよりはマシだ。

「……」
 ――訓練の内容の違いもあって、正直自分はまだあまり疲弊してはいないのだけれど。
 しかし俺が同時に休憩を取らないと、阪田は余計な気を遣ってしまって充分に休めないだろう。彼と出会って数週間しか経っていない自分にもそれぐらいのことは予想がつく――ようになったのは、本当に、最近のことだが。
「そういえば」
「?」
 ようやく息が整ってきたらしい同僚の横顔を見つめて話し掛けると、すぐに「どうかした?」と穏やかな声が返ってくる。顔立ち自体は同い年の青年にしては幼いつくりをしているものの、此方に向けて小首を傾げる仕草はまるで小さい子供に語りかける親か何かのようだった。
 こんな風に感じるのは、先日彼から『妹が居る』と聞いたせいだろうか。逸れそうになった思考を無理矢理元の軌道に戻して、夏生は何処か大人びた笑顔に向かって口を開いた。
「眼鏡、外さなくていいのか。邪魔だろう」
 ――先程の腕立て伏せの際も、それ以前に腹筋に勤しんでいた時も、阪田はいつも身に着けている眼鏡を掛けたままだった。視力が悪いのだとは聞いているが、こうして運動する時にまで掛けたままでいるのは鬱陶しくはないのだろうか。
 ふと湧き出た疑問を口に出すと、阪田は「ああ」と頷いて苦笑いする。
「……ううん、いいんだ。前がはっきり見えないのも不安だし、僕はそんなに……、見てるほうが暑苦しいかもしれないけど。毎日掛けてると、もう身体の一部みたいな感覚なんだよね」
「そうか」
 両の手の指で眼鏡を掛け直しつつ、阪田は普段より少し饒舌に語った。最近の日常的に眼鏡を掛ける人間が身近に居なかったためか、夏生には阪田の言う『身体の一部』という感覚はよく理解できなかったが。
 普段から眼鏡を使う人間にしかわからない愛着があるのかもしれない。本人の気に障らないのならば問題ないだろうと納得した夏生は、蓋を開けたままでいたペットボトルの水を又一口飲み下した。

「鎧戸くんの方はどう?」
「……大丈夫だ」
 少しだけ上ずった声で問い掛けられて、夏生はふと自分の手元の机に置かれた紙の束を見下ろした。
「その、……折ってはいない。……今の所」

 数十分前には真っ白だった用紙には、今や沢山の蚯蚓がのたくったような文字――とは呼び難いけれど、それを目指したもの――が這っている。
 慌ただしく筋力トレーニングに勤しむ阪田の横で、夏生が先程までひとり静かに取り組んでいたのは筆記――主に漢字の練習だった。
 左手に置いた書籍を見ながら、振り仮名と共に書かれている文章を右手に置いた新しい用紙に写す。
 言葉で聞いた時は簡単に思えたものの、『能力を制御できない』という問題を抱える自分にとって、鉛筆を適切な強さで握り、慣れない文字――俺にはほとんど見慣れない記号と同じに見える――を書き写すという行為は相当に注意力を要するものだった。
「すごい、鎧戸くんも新記録だね!」
 この訓練、というより練習は、箸やカップを次々と駄目にして落ち込んでいる自分を見た阪田が考えてくれたものだ。
 ――日常生活での力の加減が掴めないのならば、壊れても良い物を使って練習をしてみればいい。そう提案し、「鉛筆なら僕が持ってきたものがあるし、折れても使えるから」と自室から私物らしき書籍と鉛筆の束を持ちだしてきた阪田は、「字の練習をすればいい」とは一言も言わなかった。
 けれども彼は此方が字のことで困っている場面を見ていたのだし、そちらの練習も兼ねられる方法を考えてくれたのであろうことは何となく分かる。
「……何から何まで借りて、悪いな」
 余計な気を遣わせてしまっていることが心苦しかったが、それを直接指摘してはそれこそ委縮させてしまいそうだ。胸に募った申し訳なさと感謝を短い言葉に込めて口にすると、「こっちこそ、余りものでごめんね」と相変わらず謙虚さの過ぎる返事が返ってきた。

 ――一週間前の書類の一件といい、機関に来てからは人の力を借りてばかりだ。
 思えばこの練習場所のこともそうだった。広さのことだけを考えれば共有スペースの一角を使っても何ら問題はないのだが、あそこでばたばたと動き回るのは少し気が退けた。
 そこで此処で一番の古株であろう春日江に「どこか都合のいい場所はないか」と相談した所、普段彼が自主訓練に使用しているという部屋を紹介してもらうことになったのだ。
 いつも通り快活な微笑みを浮かべた春日江に案内されたのは、普段生活している居住スペースから一つ上の階にあるだだっ広い空き部屋だった。此方で生活するようになって以来、任務や検査で指示された時以外に自室のある階から出たことはない――少し面食らった夏生は「勝手に入っていいのか」と春日江に尋ねたが、彼からは「普段は私しか使っていないから」と少しずれた返答が返ってくるばかりだった。
 他の部屋と同じくコンクリート張りの壁と床に囲まれたその部屋には、隅に積まれた中身が分からない段ボールの他には何の家具も置かれていなかった。この部屋だけでなく階全体に人の気配が感じられないということは、恐らく本当に空き部屋なのだろう。結局他に都合のいい場所が思いつかなかったこともあり、自分と阪田もこうして自主訓練に利用させてもらっている。

 ――それにしても春日江は、いつもこんな所で一人自主訓練をしていたんだろうか。
 日中は食事の時以外殆ど姿を見かけないので、いつも境界外に出掛けているものだと思っていたが。此処で一人汗を流している時間も少なからずあったのかもしれない。
 初任務のあの日、境界外で鮮やかに異形を討伐した春日江の姿が脳裏にちらついた。今でさえあんな風に戦うことが出来るのに、彼はまだ能力を高めようと訓練を重ねているのだ。自分も早くこの問題を解決して、異形との戦闘の方に集中しなければ――

「……くん、鎧戸くん、」
「……っ、」
 いつのまにか宙に浮いていた意識がはっと目の前に戻ってくる。

 苦笑いで指し示された右手の中の鉛筆は、見事に半分に折れていた。
「……悪い、言ったそばから……」
 自分の注意力散漫さに嫌気が差して項垂れていると、阪田は慌てた様子で握った手の中から鉛筆の残骸を引き剥がした。
「気にしないで、折れた部分を削ればまた使えるし……! ……慣れないことしてると疲れるよね、ちょっと休憩したら?」
「いや、むしろ少し運動させてくれ……」
「そう……?」
 慣れない頭を使ったために集中力が途切れてきてしまっているのだろう。この歳になるまで碌に勉強というものをしたことがない自分にとっては、ゆっくりと休息を取るよりも少し身体を動かした方がかえって気分転換になる。

 そう自己判断を下した夏生が隣に寝転んでおもむろに腹筋を始めたのを見て、阪田は苦笑と少しの羨望の滲んだ声で呟いた。
「鎧戸くんの体力はすごいよね、僕なんてすぐばてちゃって」
「そこまでじゃないけど、……身体を動かすのは好きだな」
 生まれつき運動神経が悪くなかったせいか、子供の頃から身体を動かすことは好きだった。脳がすっきりするし、動いている間はあまり難しいことを考えなくていい所がいい。
「此処に来る前から何かやってたの?」
「……何か競技をしていたわけじゃないが、日雇いの仕事で少し」
「、働いてたんだ」
 「すごいなあ」と少し目を見開いて言った阪田に「力仕事ぐらいしか出来ないから」と首を振りながら、夏生は機関に来る前の生活を思い返していた。
 ――学も無く、仕事を紹介してもらえるような伝手も無かった自分に出来る仕事は単純な荷運びや工場での日雇い労働ぐらいだった。自分でなくてもいい、いくらでも代わりの人員が居るそれらの労働の対価は勿論あまり高いものではなかったが、それでも何もないよりはマシだ。
 女性である姉は母の知り合いを通して看護婦の補助の仕事を見つけていたため、家に入れていた金額は彼女の方が多かったように思う。
「……俺みたいな奴は、本当なら軍に志願するのが一番良かったんだろうが。それは家族に止められて」
 討伐軍に志願していれば――学歴がなくとも、体力と健康状態に問題のない男子ならば、志願兵としての入隊資格は満たせるだろうし――最低限の衣食住も保障されるはずだった。多少の危険はあるだろうが、そうすれば母と姉を養える程度の稼ぎは得られていただろう。
 そう考えて入隊が可能な年齢に達した頃から何度も説得していたのだが、彼女達はいつでも強く反対していた。
「……それは……、」
 過去のことを思い返している内に取り留めのない思い出話を洩らしてしまった夏生に対して、阪田は少し言葉を濁した後で柔らかく苦笑した。
「……親御さんが心配になるのも無理もないよ。討伐隊は危ない仕事だし……って、それは、此処もあんまり変わらないんだけど……」
「そうだな」
 ――討伐隊と違って特務機関の『強化人間』には外部との連絡手段がない分、此処の方が母や姉にとってはより避けさせたい就職先だったかもしれない。
 敢えて呑気に構えることを決めた夏生がそろそろ筆記の練習の方に戻ろうかと思案していると、不意に隣の阪田が「……鎧戸くんは、」と声を潜めた。
「何だ?」
「蕪木さんから謝礼の話は聞いた?」
「ああ、お前も……。……それが?」
「いや、その……、別に、大したことじゃないんだけど」
 阪田は控え目に前置きすると、膝に抱えていたペットボトルを手放して此方に向き直った。
「どう、思ったかなって」
「どう、というと……、まあ、……正直……褒められたやり方ではない、とは思う」
 初めて聞いた時は柊に指摘されるまで気が付かなかったが、双方を人質に取った脅迫めいたあのやり口は確かにあまり良識のある方法ではないだろう。
「けど、」
 ……けれど、しかし――
「……けど?」
「俺の家はあまり……余裕がなかったから。……『此処』が援助してくれるなら、そのこと自体はありがたいんだ。俺は」
「……」
「これで、少しは楽になるだろう」
 蕪木さんはあの時、金銭面の援助だけでなく都市部の住居の手配まで申し出てくれていた。今の自宅のある地区は女性二人きりで生活するには少し治安が悪いし、引っ越しの資金まで機関が出してくれると言うのならば俺にとっては願ったり叶ったりだ。
 あとの心配事は、家族が素直にそれを受け入れてくれているかどうかだけれど――阪田が何のつもりでこの話題を持ち出してきたのかはよく分からないが、そこまでは此処で話さなくても構わないだろう。

 阪田はたどたどしく話す此方の声を最後まで静かに聞いていたようだったが、やがて先程と同じ、どこか大人びた表情で微笑んだ。
「鎧戸くんは、優しいね」
「っ、……?」
 そう笑う阪田の声色はいつも通りに優しく、穏やかなもので――しかし、どうしてだろう。夏生の耳は何故だかその言葉に心当たりのない引っ掛かりを覚えて、殆ど反射のような速さでもっとはっきりと彼の表情を伺おうと弾かれたように顔を上げた。

 ――そんなことはない。そう否定しようと口を開きかけた瞬間、背後でガチャリ、とドアノブの回る音がした。

「鎧戸」
「……柊?」

「――四時から検査だって、ドクターに言われてたでしょ」
 生温い空気を打ち破って部屋に足を踏み入れてきた青年は、付けずに手に持った腕時計の文字盤を此方に向けると、「過ぎてる」とあからさまに苛立った様子で舌打ちをした。
「あ、……ああ、悪い。もうそんな時間か……」
 『四時から定期検査をするから、研究室へ向かってくれ』――言われてみれば、朝の放送でそう指示されたような記憶がある。
 此処に来た日以来会えていない白衣の男には此方としても聞きたい事柄が山程あるから、そのこと自体は覚えていたのだけれど。阪田の話と訓練の方に気を取られて時間を気にするのを忘れていた。
「余計な手間かけさせないでよね」
 大方あの人から俺を連れてくるよう頼まれたのだろう。面倒くさそうな表情を隠しもせずに此方を睨んだ柊は、次いで散らかった部屋の様子を見渡すと「うわ、」と呆れた声を出した。
「……何してたの?」
「練習だ」
「はあ?」
 柊は机の上に散らばった鉛筆の残骸と此方の顔とを交互に見比べると、あからさまに何か言いたげな表情で腕組みをする。いかにも不機嫌さを滲ませた形に歪んだ唇から罵倒が飛び出るより先に、状況を察したらしい阪田があわあわと弁解を始めた。
「あっ、その鉛筆は僕が持ってきたやつで……大丈夫、此処の備品は壊してないから!」
「ああ、壊してない」
「復唱しないでくれる? ……どうでもいいけど、さっさと片付けて早く行ってよね」
 額に汗を浮かべた阪田と二人で顔を見合わせて頷くと、柊は気怠げに言い放って机をトントンと人差し指で小さく叩いた。
 既にかなり疲れた様子の柊を更に苛立たせるのも悪いし、これ以上遅刻してはあの人に何を言われるか分かったものではない。阪田が慌てて紙と鉛筆ををかき集めてくれている内に机を部屋の隅に運んでしまうと、柊は「はあ、」と少し落ち着いた様子で溜息をついた。
「……阪田ちゃんも、暇なら下に降りてこっち手伝って。先週の分の始末書書かなきゃなんないから」
「う、うん、わかった」
「そうか。……じゃあ、また後で」
「うん。これは片付けておくね」
 紙の束を抱えて言った阪田に「ありがとう」と言い残して部屋を後にする。

 部屋の扉を完全に閉めると、人影ひとつない長い廊下は混じり気のない静寂に包まれる。

 冷たいコンクリートの床を一人踏みしめて暫く歩いた後、夏生はふと先程まで阪田と過ごしていたあの部屋の方を振り返った。
 ――あの人を問い質せば、自分や阪田の抱える問題を解決するための手がかりが掴めるかもしれない。
 だから自分は、このまま研究室へ向かった方が良いはずだ――そう思っているはずなのに、何故だか後ろ髪を引かれるような気分になりつつも、夏生は目的地への道を急いだ。


「――血圧、脈共に大きな異常は無し、か。順調だね」

「……」
 四方をコンクリート張りの壁に囲まれ、ベッドに机、診断器具だけが置かれた部屋。
 初めて『特務機関』で目覚めた昼のことを思い出させるような殺風景な部屋の片隅で、丈の長い白衣をコートのように羽織った男は、先程部下らしき人間に手渡されたばかりの診断書の束を眺めながら淡々と呟いた。
「各能力の最大値については今後計測していくとして、他の値もキミが此処に来た日の状態とは比較にならない程に健康的だ。文句ナシの健康体。いっそ嫌味な程だな!」
 白衣の男――『ドクター』を自称する研究者は、いかにも退屈そうな表情で読み終わった書類を背後へと投げ捨てた。天井近くまで舞い上がった紙の束が滑らかな軌道を描いて部屋の隅のゴミ箱の中へと着地する過程を目で追いながら、夏生は溜め息と共に重い口を開く。
「……そうか。それはもうわかった。……それより、さっきの」
「それで、キミ達の状態について説明しろという話だったな」
「……」
 男と顔を合わせたのは一週間振りだが、当然のことながら彼は何も変化していなかった。
 饒舌すぎて理解が追いつかない語り口も、人の話を途中で遮る失礼な悪癖も――あれはもしかすると態とやっているのかもしれないが――先週初めて会話した時と寸分変わっていない。その奇人めいた振舞いに早くも慣れを感じ始めている自分に呆れつつも、夏生は静かに男の話に耳を傾けた。

「――キミは先程、キミ達の課題の所在は能力自体ではなく、『出力』にあるのではないかと言ったね」
 キャスター付きの椅子に座ったまま此方を振り返った男に向けて頷くと、彼は金色の目を細めて満足げな表情で腕を組んだ。
「そのアイデアは強ち間違いではない。キミにしては冴えた考えだ。三十点はやってもいい」
 「満点を五百点とすればだがね!」と高らかに宣言する男の姿に溜め息を吐きながら、夏生は無言で言葉の続きを促した。
「『火事場の馬鹿力』という言葉を知っているか」
「知って……、る、が」
 ――寧ろあんたはよく知っていたな。夏生がいかにも外国人然とした男の顔のつくりを見つめながら言葉を飲み込んで頷くと、男は特に此方の挙動を気にする様子もなく朗朗と語り出した。
「平時の人間の脳は、身体が持っている力の全てを出力するようには出来ていない。常に百パーセントの力を出していては負荷が掛かりすぎてしまうからな。身体を維持していくために、自らの能力にある程度の制限を掛けている」
「制限……?」
「危機的状況に陥った時や、極度の興奮状態に入った時には、そのリミットが外れるために、普段は抑えられていた『最大出力』が出せる――そういうシステムのことだ」
 滑舌の良い早口で捲し立てられる言葉を頭の中で噛み砕くのに少し時間が掛かったが、一応の理解はできた。普段は無意識の内に抑え込んでいる潜在的な力が、火事や事故といった命の危機に瀕する事態に直面した時に初めて引き出されることがある、という話だろう。
「……それが、な」
「キミ達の今の状態と何の関係があるのか。――ヒトが本来持ち得ている能力の値と、実際に出力される能力の値は同一ではない、ということだ」
「……」
「強化人間化は成功し、キミ達の身体能力の上限は大幅に上昇した。元々の才能による個人差はあれど、それは変わらない――しかし、注射を受けた直後に力を出力出来たキミとは違って、アキヒト君のそれは未だ『人間』の範疇に留まっている」
 男の口から出た言葉と『注射』という馴染み深い単語を聞いて、夏生は自分が強化人間になった瞬間――数週前のあの雨の夜のことを思い返してみた。
 あの時――男と会った時の自分は、腹部に深い傷を負い、殆ど死にかけているような状態だった。辛うじて意識はあったものの、もしもあのまま放置されていれば間違いなく命を落としていたことだろう。
 数分後に生きているかも分からない状態で、平時のような『制限』など働くはずもない。あの危機的な状況で男と出会ったからこそ、自分は特に躓くことなく強化人間の本来の能力を出力することができた、ということだろう。

「……待て、その理屈で行くと、つまり……」
 ここまでの話を聞いて、夏生の脳裏に浮かんだ解決策――阪田の能力を引き出す方法はただ一つしかなかった。
「死ぬような目に遭えばあるいは、」
「それは駄目だ」
 ――いくら阪田自身が『強化人間』の能力を使えないことを気にしているとは言え、そのために彼を無暗に危険な目に遭わせることなど出来ない。
「と、思ってツカサ君達に同行させていたんだが、特に変化はないしね。希望的観測すぎたな!」
「……」
 ……時折春日江達の補助として同行させられていたのだとは阪田から聞いていたが、そういう魂胆だったのか。此方の恨みがましい視線と声を気にした様子もなく、男は素知らぬ顔で言葉を続ける。
「マア、キミに言われずとも。現状ではこの手では無理だろうね」
「……? ……どういうことだ?」
 無意識の『制限』なしに潜在能力を引き出せるような状況を作り出すことが重要ならば、死にかけるような目に遭えば――そんなことはさせないが――誰でも自分が持っている能力の最大値を出力できるということではないのだろうか。
 冷めた口調で言い放った男の言葉の意味を図りかねて首を傾げると、男は月のような薄い金色の瞳を細めて口を開いた。

「恐らく、彼の場合は――身体を守る為に脳が無意識に行う制限とは別に、彼自身が自分を認識する上での『限界』への意識がノイズになっている」

「……それ、は……」
 意識――脳が生存のために勝手に掛けた制限ではなく、阪田自身の心の動き。この男は、それこそが彼の能力の『出力』の妨げになっていると言っているのだ。

「……どういうことなんだ? 何で――」
「ボクはドクシンジュツを会得してるわけじゃない。具体的な内容を考えた所で推測の域にも達しない、邪推でしかないね。――だが、そのノイズを解消しない限り、いくら『死に掛けさせた』ところで、彼の能力は発現しないだろう」
「……そ、の話は、あいつに……」
 ――どう説明すればいいんだ。何かの手違いや身体能力云々の話ではなく、お前自身の心に問題があるらしい、などと。
 胸に湧き上がった焦りと戸惑いのままに夏生が感情的な声を洩らすと、男は冷めた表情で首を横に振った。
「知ったことじゃないな」
「……」
「ボクは思いついたことを口にしただけで、偶然そこに居合わせたキミがそれに対してどんな感想を抱こうとどうでもいい、興味が無い、関係がない、そしてボクには責任が無い!」
「……」
 頭が痛くなってきた。

「――マア、ボクとしてもこのままでは少々困る。対策は考えているさ」
「……危ないことじゃないだろうな」
 愉快そうに口元を歪めた表情に嫌な予感がしてぼそりと零すと、男は「それは保証できかねるが」と事も無げに言い放った。
「……あいつは、……あんた達に此処へ呼ばれたから、学校まで辞める派目になったんだぞ」
 ――男に出会わなければ死んでいくのみであった自分とは違う。阪田はある日突然にそれまでの特に不自由のない日常から切り離され、此処に来ることになってしまった人間なのだ。それを彼自身が『嬉しかった』と話していたとはいえ、その事実は変わらない。
 「無責任なことだけはしないでくれ」と口から零れた言葉がどこか拗ねたような響きを帯びてしまった気がして、夏生は途端に少しばつの悪い心地になった。――なんという子供じみた懇願だろう。情に訴えることしか出来ないなんて!
 よりによってこの人相手にその手では、効き目などありそうもない。自分の発言を省みた夏生が心の中で項垂れそうになった瞬間、冷たい壁の向こうから静かな女性の声がした。
「――ドクター。そろそろ時間が」
「ああ、分かった」
 ――俺の遅刻のせいで開始時刻が遅れたこともあり、随分と長くこの部屋に滞在していた。恐らくは痺れを切らした部下が呼びに来たのだろう。
 少し申し訳なく思った夏生が手早く帰り支度を整えると、男は特に焦った様子も無く、長い白衣を翻すようにして軽やかに椅子から立ち上がった所だった。
 ――次の検査の準備もあるのかもしれないし、此処は俺が先に出て行った方がいいだろう。そう考えた夏生が軽く会釈をしてドアノブに手を掛けた時、背後から「最後に一つ、」と静かな声が耳に届いた。
「先程のキミの発言について、一つだけ訂正事項があった」
「……何だ」
 ――また『自分には責任が無い』とでも言うつもりだろうか。相変わらずの回りくどい言い回しに半ば呆れながらも振り返ると、男は何を考えているのか読めない無表情で淡々と告げた。

「ボク達は彼に『来い』とは言ったが、『学校を辞めろ』なんて一言も言っていない」

「は?」
「事前情報ではそう聞いていたけれどね。此方が二郎君を通して接触する一週間前には高校を自主退学していたようだ」
「、」
「それ以前から就職活動は行っていたらしいが、あの辺りも好景気とは言い難いからね。結果は芳しくなかったと見える。そこに来て『特務機関』の話が舞い込んできた――この国では、そういった場面のことを、寧ろ、」

「『幸運』と呼ぶんじゃないのか?」


「っ……はあ、……」
 洗面所の冷たい水で顔の汗を流しながら、阪田秋人(ハンダアキヒト)は誰に聞かれるつもりもない溜め息を吐いた。

 ――慣れない運動をして疲れていたせいか、言わなくていいことを言ってしまった。
「……」
 自分以外の誰もいない狭い部屋で、水道の水が細く流れる音だけが小さく響いている。
 先程の訓練で掻いた汗はもうとっくに流れているというのに、何故か蛇口を締めるだけのことが億劫だった。両の掌から流水がぽたぽたと零れ落ちていく感触に『水の無駄遣いだな』と冷静な自分が囁いてくるけれど、どうしてか止める気になれない。
「……っだめだ、」
 はっと我に返って、精一杯の気力を振り絞って蛇口を締める。
 ――お前は「変わりたい」と言ったじゃないか。
 自分に言い聞かせるように心の中だけで呟くと、落ち込みかけた精神をどうにか奮い立たせようとした頭が、僕が抱えるどうしようもない問題と、彼が悩んでいる課題のことを『同じ』だと励ましてくれた彼の顔が思い浮かんだ。全然似ていないとは思うけれど――そのことを思い出すと、少しだけ気が紛れるような気がした。

 彼は――鎧戸くんは、僕と同じ年齢の割に、とても素直な心根を持った人のようだった。だからあの言葉もきっと、彼の掛け値なしの本心から出たものだったのだろう。
 他人の言葉を何でも真っ直ぐに受け取るし、彼自身もそのまま真っ直ぐな言葉で返す。
 出会ったばかりの時は『何を考えているのかわからない』と思っていたけれど。緊張した僕が彼の発言の裏を読もうと考え過ぎてしまっていただけで、その頃から彼自身には何の他意はなかったのだろう。
 あの真っ直ぐすぎる性質を見ていると、何事にも慎重に取り組む性格の柊くんが彼を心配するのも分かるし、それに――ご家族が彼のことをとても大事にしていたのであろうことも、分かる。
「……」
 ――そろそろ部屋に戻ろうと脇に置いていたタオルを手に取ったところで、右肩に何か温かいものが触れた。
「阪田ちゃん、」
「わっ」
 油断しきっていた所に肩を叩かれて大袈裟に身体を跳ねさせた僕に、突然背後に現れた青年、柊くん――顔は見えないけれど――は、「そんなに驚くほど?」と呆れたような声を出した。

「全然戻ってこないから、始末書が嫌すぎて逃亡したかと思った」
「す、すみません……」
「まあ、別にいいんだけど。もう終わったし」
 僕としたことが、先程手伝いを頼まれていたことをすっかり失念していた。……あれは本当は団地の部屋を破壊した張本人である春日江くんと鎧戸くんが書くべきものだったのけれど、流れで柊くん一人にやらせてしまって申し訳ない。
 ――けれど、それならどうして此処まで探しに来てくれたのだろう。ふと湧いた疑問をかき消すように、柊くんは「それより」と語気を強める。
「眼鏡、洗濯機の上に置かないでよ、落として壊したら困るでしょ」
「あっ、……ああ、ごめん」
 此処に来た直後はあまり頭が回っていなかったようで、いつもならきちんと安定した場所に置いておく眼鏡も変な場所に放置してしまっていたようだ。
 視界が不明瞭でよくわからないが、恐らくどこか別の場所に移動させてくれようとしているのだろう。眼鏡を手に持っているらしい柊くんに、もう掛けるからそのまま貰ってもいいかな、と声を掛けようとした時、彼が不意に静かな声で口を開いた。
「それ、掛けてないと」
「?」

「目立つんじゃないの、……隈」

 ――見られた。
 そう認識すると同時に、何処かでカチャリ、と聞き慣れた小さな音がした。

「……ちょっ、と待って」
 「どこに」と尋ねた声が、思うよりもずっと苛立ったような響きを帯びてしまったことに気付いて、しまった、と口を覆う。しかし彼はそれを怒るでもなく、普段のように皮肉じみた言葉を繰り出すでもなく、ただ事実だけを伝えるような淡々とした口調で答えた。
「右手を斜め四十度に伸ばしたところ」
 その声が、なのか。――彼からそんな反応を引き出してしまった自分が、なのか。自分でもよく判断がつかなかったけれど、何故だか何かがとても恐ろしくなって固まっているうちに、柊くんの硬い足音は静かに遠ざかって行った。

 再び一人きりになった洗面所で、ふと顔を上げて鏡を見る。
 靄がかかったように濁った視界の中で、鏡の中に佇む自分らしき影の輪郭はやはり醜くぼやけていた。

 分かっていたことだ。分かっていたけれど――何度も追い縋ろうとして、確かめて、実感しては酷い虚無感に襲われる。

「……やっぱり僕には、何も」

 ――見えないのだ、と。





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