1-5




 息が上がるまで走り続けて、薄暗い裏通りの半ばまで来た所で足を止めた。通りの突き当たり、廃れたビルの間に高い鉄条網が見える。人気のない方向を選んで走っている内に、いつのまにか境界の近くまで来てしまったようだ。そのことに気付いた夏生は一瞬どきりとしたが、サイレンの音はもう何処からも聞こえない。目視できる範囲にスピーカーが設置してあるのは見つけたが、放送自体がもう止んだのか、あるいは壊れてしまっているのか、今は何の音も鳴らさない。
   それにしてもあれは何だったのだろう。先程はどうにか逃れられた。今日会った係員二人には顔が割れているものの、住所はおろか本名すら教えていないのだ。暫くあの通りに近付かないようにして、そのまま知らぬ振りを続ければやり過ごせるだろうか。そもそも、未だに何から逃げているのかすらわからないままなのだ。このまま逃げ切ったとして、それが原因で何か問題は起きないんだろうか? 家族に事情を説明してから、もう一度あそこに――いや、それだと間違いなく止められるか。
 そこまで考えたところで、夏生は取り留めのない思考を一度中断した。
 日はいつのまにか落ちてしまって、月もその光を雲の裏側に隠している。夜になりかけた街は暗く、時々遠くで鳴くカラスの声以外は何の物音もしない。裏通りに人影は無く、路地裏で夜を明かそうとする浮浪者達の姿も今日は見当たらない。静かな夜だった。――いっそ不気味に感じるほどに。
 此処から自宅に戻るなら、一度突き当たりまで歩いて境界沿いの道を行くのが最短だ。先程のサイレンのこともあるし、道すがらに兵士達の表情を伺っておくのもいいだろう。今現在何の音沙汰もないのだから事態は収まったのだろうと思うが、被害のレベルがどの程度なのかは彼らの様子を見れば大体推測できる。
 頭の中で幾つももっともらしい理由を並べたてはしたが、結局は年甲斐もなく動揺しているだけなのだと自分でも分かっていた。こんな時期に想定外の出来事が起きたから気が動転しているのだ。一度難を逃れたと思ったら、今度は静けさに不安を覚えて人の姿が見たくなるなんて、子供を通り越してまるで幼子のようだ。自分の未熟さに呆れながらも、夏生は通りの終点へとゆっくりと歩を進めた。

 突き当たりまで歩いて、鉄条網に面した細い道を覗いたところで、夏生は自分の当てが外れたことを知った。常ならば道行く人に威圧感を与えるほど整然と並んでいる兵士の姿が、今はどこにも見当たらないのだ。
 普段は警備に当てられている者達まで討伐に駆り出されたのだろうか。異形の討伐自体はいつも『外』で行われるから、境界警備の目的は市民が境界外に出ないよう見張ることだ。自分から危険地帯に出て行こうとする者なんて滅多に居ないだろうとは思っていたが、いざ誰も守る者がいない境界の風景を見ると言い知れぬ不安を覚える。
「……」
 ――落ち着いて、さっさと通り過ぎてしまおう。夏生はふっと息を吐き、狭い道に一歩踏み出した。
 街灯もない境界付近の夜は暗く見通しが悪いが、道自体は真っ直ぐなので歩く分には不自由はない。
 数分程歩き続けたところで、カツリと爪先に何かがぶつかった。暗がりに目を凝らすと、ワイヤーのようなものが足元に落ちているのが見える。一目見てその残骸の正体に気付いた夏生は、ハッと顔を上げて周囲を見回した。
 鉄条網が、破れている。
 こじ開けられていると言った方が正しいかもしれない。網の最上部は壊されていないものの、夏生が立っている傍、地面に近い部分はぐにゃりと捻じ曲げられていて、大きな穴が開いたような形状になっている。穴の高さは夏生の背丈を優に超えていて、大人二人が横並びで通れそうなほどの横幅があった。
 どう見ても普通の人間に成せる業ではなかった。そうだ、まるで人よりずっと巨大な生き物が、無理矢理通り抜けようとでもしたような――
 その考えに至って、更に少し先の地面に転がる影を視認した時、夏生は自分の鼓動が一気に速まるのを感じた。ぬるい夜の空気に、むわりと鉄のような臭いが混じっていることに気付く。臭いの源が前方のそれであることは明らかで、夏生は今すぐ来た道を引き返したくなる気持ちを寸での所で抑えつけた。
 確かめないわけにはいかない。たとえ、近付く前からそれが何であるか予想がついたとしても。
 震えそうになる足を一歩、二歩と踏み出して、地面に転がっている――横たわるそれに近寄る。たかが数メートルの距離がやけに遠く、ぬるい空気を切る身体がやけに重く感じた。
「っ……」
 それは、間違いなく人間の死体だった。汚れた白いシャツと擦り切れたジーンズを身に纏っている、体格からして男性だろう。年齢等は知りようがないが、服装を見るに境界を警備していた兵士ではないようだった。恐らくは夏生と同じように、この付近の地区で暮らしていた市民の一人なのだろう。
 何故男が『間違いなく』死んでいると判断できるのかと言えば、彼の身体には首から上の部位が存在しなかったからである。
「うっ……ぐ……」
 夏生は両手で口元を抑えて、こみ上げてくる吐き気を無理矢理飲み下した。
 心臓がどくどくと早鐘を打っている。
 一瞬目に入ってしまった切り口は、明らかに刃物で斬られたようには見えなかった。まるで、何か強い力で喰い千切られでもしたような、いや、そんなことはありえない。ありえないはずなんだ。あいつらが『中』に居るなんて、だってそんなことはあれ以来なかったのに――
 その時、ガタリ、と背後で物音がした。
「……っ!」
 夏生は反射的に鉄条網から離れ、建物側に身を寄せた。身体を壁に張り付けるようにして立つ。気を抜くとだらしなく悲鳴を上げてしまいそうになる口を右手で塞いで、居るはずはないのに居る何かに自分の存在を悟られてしまわぬよう必死だった。息を潜め、目を瞑りたくなる衝動を殺して、じっと暗がりの中を見つめる。
 ありえない、はずだった。けれど、その可能性が少しでもあるならば、此処であれから目を逸らすことはきっと死に繋がる。
 そして、暗闇の中にその『何か』、――『異形』は姿を現した。
 先程夏生が通ってきた道の途中、こじ開けられた鉄条網よりは少し前の位置だ。脇道からスッと顔を出したそれの皮膚は、街の噂と夏生の記憶通りの赤黒い色をしている。眼球が半分飛び出した頭部をキョロキョロと左右に振って、それは周囲を見回しているようだった。近くの地面に転がる男の亡骸には目もくれない。異形は数メートル先で息を潜める夏生の存在にも気づいていないようで、身体ごと此方の道へ入ってくるような素振りはなかった。
 夏生は異形の一挙一動を見つめながら、この場から逃れる方法を考えていた。
 どうやら、あいつは夜目がさほど利かないらしい。このまま動かずにいればきっと気取られない。あいつがこの道には誰も居ないと判断して立ち去るまで待って、充分距離が空いたと確信できた時に逃げる。今焦って逃走したところで、速さで人間が異形に敵うはずもないのだ。あいつが立ち去らずに此方側に歩いてきたら、その時は、もうどうしようもないけれど。
 しかし、その心配は杞憂だったらしい。よく機能していないらしい目だけで周囲を確認し終わった異形は、頭を引っ込めて大人しく脇道に引き返していった。
 少しだけ安堵して、深く息を吐きたくなるのを我慢する。
 けれど、まだ駄目だ。あいつはまだ近くに居る。気を抜くのは充分離れたと分かってから――そう考えて動かずにいた夏生の目は、不意に暗闇の向こうに現れた人影に見開かれた。
「……!」
 夏生が先程通って来たのと同じ方向から、誰かが此方へ歩いてくる。距離と暗さのせいではっきりとは分からないが、ふらふらと左右に揺れ動くシルエットは確かに人間の、多分男性のものだった。足取りは酔っているのかと疑いたくなるほど不安定で、土と砂利を踏みしめる足音が夏生のいる場所まで聞こえる。
 駄目だ、まだまずい。待ってくれ、こっちに来るな、音を立てるな! どうにかしてそう伝えたかったが、男は夏生が此処にいることにもまだ気が付いていないようだった。だからといって、彼に危険を知らせる為に自分が声を出してしまっては元も子もない。
 ――落ち着け。男が脇道の前を通り過ぎるより先に、あいつがこの場を離れてくれればそれで済むことだ。
 夏生がそう願ったのも虚しく、此方へ近寄ってきた男は突然足元の何かに躓いた。
「――あ」
 よろけた身体は、左半身から鉄条網に倒れ込む。
 カシャンと、大きな音が鳴った。
「……!」
 倒れ込んだことで特に怪我をしたわけではないらしく、浮浪者然とした身なりの男は態勢を立て直して再び夏生の居る方へ歩き出そうとする。
 彼が一昨日出会った薬物中毒者の男であることに夏生が気付くのと、脇道から赤黒い顔が現れたのは殆ど同時だった。
「……? あ、あああ……!? 何……」
 異形の巨大な身体で塞がれた道の向こうから、漸く現状を認識したらしい男の悲鳴が聞こえる。
 夏生の脳裏に、頭を喰い千切られた男の死体の姿が蘇った。男と異形の距離は先程隠れていた時の夏生よりは空いていたはずだが、彼の足ではまず間違いなく逃げ切れない。
 最悪だ。どうすればいい。俺は何をするべきなんだ? ――あの男が襲われている隙に逃げるのか?
 数秒の間に様々な考えが浮かんでは消えたが、手足は凍りついたように動いてくれない。
「――死にたくない!」
 けれど、暗闇を劈く悲鳴が耳に届いた瞬間に、身体が勝手に動いていた。
「こっちだ!」
 今まで出したこともないような大声で叫ぶ。それまで男の方だけに狙いを定めていた異形の顔がぐるりと此方に振り返った。ぎょろりとした目玉の焦点が自分に合わさったのを見て背筋がぞっと冷えたが、此処で動けなくなってしまっては何にもならない。異形の視線が自分に向いていることだけを確認すると、夏生は全速力で鉄条網に開いた大きな穴を潜り抜け、境界の『外』へと駆け出した。
 なるべく男から異形を引き離そうと思っての行動だったが、長くは持たないであろうことは分かっていた。
 ――それでも、出来る限り遠くへ。背後に近付く足音と鋭い気配を感じながら、それだけを考えて夏生は暗闇を走り続けた。

 あの男は無事に逃げられたんだろうか。
 地面に倒れ込んだ夏生の目に映るのは、黒い雲に覆われた夜空だけだった。いつの間にか雨がぱらぱらと降り出して、水分を吸った服が徐々に重たくなっていく。首を動かすことがままならなくてよくは分からないが、どうやら脇腹の辺りを中心にして大量に出血しているようだった。頭を齧られなかっただけマシなのだろうか。こうして放置されているということは、奴が別に人を食べたいわけではないという噂は本当だったらしい。
 ああ、また服を汚してしまった。きっと明日も雨だろうに。
 取り留めのないことを考えながらも、夏生は心のどこかで今の自分の状態に冷静に判断を下していた。
 多分、俺はもう助からない。
「……」
 政府は異形の侵入に気付いているのだろうか。気付いていたとしても、きっと此処まで救助は来ないだろう。あの時馬鹿正直に『迎え』を待っていたら、何をされるかは分からないけれど、少なくとも今日死ぬことはなかったのかもしれない。そんな考えが一瞬頭に浮かびはしたが、真剣に後悔しているのかと問われれば、そういうわけでもないと自覚している。予想していたほどの悲しみも恐怖もなく、頭は普段よりもむしろ冷えているくらいだった。
 ただ、自分は此処で一人で死ぬのだと、その現実だけを理解していた。

「あーあ、散々な有様だなあ」

 ――理解していたから、足音と共に自分を揶揄するような声が降ってきた時も、夏生の冷ややかな思考はそれをただの幻聴だと判断した。
「腹部に一撃か、そこの彼と違って首が繋がってただけまだ良かったんじゃないか? 全く、担当者の到着を待たずに逃げるからこんなことに巻き込まれる羽目になるのさ。……マア、彼らの説明がとんでもなく下手だったというのは認めるけど」
 死に際に現れる死神だとか走馬灯だとか、そういった類のもの。無意識の産物だ。そんなものを自分が見聞きすることになることになるなんて、昨日までは思いもしていなかった。日常を送る場所と隣り合わせにある死の危険の存在を、自分では忘れていないつもりだった。認識できているつもりだった。けれど、本当のところは忘れかけてしまっていたのだろう。
「……無視なんていい度胸だね」
「……ッ!」
 唐突に右腕に衝撃と痺れが走り、半ば内省の世界に入り込んでいた夏生の瞼は驚きで見開かれた。
 仰向けに倒れている夏生の傍らに、背の高い男が一人立っていた。
 もう蒸し暑い季節だと言うのに襟が首元を覆う黒い服を纏っていて、その上から羽織った丈の長い白衣が視界の端でゆらゆらと揺れている。先程の衝撃は、彼が地面に転がった自分の腕を軽く蹴ったことで生まれたようだった。
 冷たい靴の感触までも再現できているとしたら、随分と現実味のありすぎる幻覚だ。
 そもそも無意識とはいえ、普段から弁が立つ方ではない自分の脳内を具現化したものがこんな風にぺらぺら五月蠅く話すものなのだろうか。我に返ってみれば違和感しか覚えない。だとしたら、彼は本物の人間なのだろうか? 白衣を着ているということは、血液販売業者の一員か、今日会った係員達とは雰囲気が違う気がしたが――いや、違う。そんなことはどうでもいい、誰だとしても、今すぐにこの場を離れさせなければいけない。先程の奴がいつ戻ってくるかもわからないし、また違う個体が襲ってこないとも限らないのだ。
「……い、から、…っと、逃げ」
「気にしなくていい。ボクはこんな所で死にかけるヘマはしないんだ。キミと違って」
 そう言い切ると、男は夏生の顔を上から覗き込んで、何が可笑しかったのか馬鹿にしたように鼻で笑った。
「それよりも、キミはもうすぐ死ぬわけだけど」
 夏生はもう、この男が何者であるか考えることも、彼の失礼な物言いに腹を立てることも億劫になってしまっていた。
「その前に教えてほしいことがあるんだ。この国の言葉では……何だったか、メイドの土産? そう、そのお土産に教えてくれよ」
 「何を」と夏生が疑問を口に出す前に、男は勝手に話を続けた。
「キミはこれから死んでしまうわけだけど、この結果は別に回避不可能だったわけじゃない。充分避けて通ることは出来たのに、キミが勝手に選んだせいで――知り合いでも何でもない薬中を助けようとしたせいで、今キミは無様にも死にかけている。……なあ」
 男の言葉は、故意に人の心を刺して痛めつけようとする毒のように刺々しい。今は感覚が鈍くなっているし、自分でも分かっていることを言われているから傷ついていないだけで、普段の自分ならば憤りを覚えていたかもしれない。
 けれども次に続いた言葉だけは、夏生の耳には皮肉ではなく、純粋な疑問のように聞こえた。
「キミはどうして、ここで死ぬんだ?」
 夏生には、男の質問に答える義務も義理もなかった。
「……それは、あいつが」
 それでも、上手く動かせない口を開こうと思ったのは、何故かは分からないが――夏生自身が彼の問いに答えたいと思ったからだった。
「死にたくない、って……言ったから……」
 別に、あの薬物中毒者が、一昨日夏生がした問いに答えたわけではないことぐらい分かっていた。先程は恐怖で一瞬だけ正気に返っていただけであって、例え此処を生き延びたとしても、彼がまともに社会生活を送れる状態に戻る見込みはないだろうということも。
 けれど、だからこそ、あの一言だけは真実なのだろうと思ったのだ。
 意識が覚束ない状態でも血を売って金を得ようと行列に並んでいたのも、異形に襲われて夏生に縋ったのも、彼の中にまだ生きたいという気持ちがあったからなのだと。そう思った、思い込んだ瞬間に身体が勝手に動いていた。
 この感情は、断じて姉の言うような優しさではない。――ただ俺は、自分以外の誰かが傷つく所を、死ぬ所を見たくなかった。それが「痛い」、「死にたくない」と嘆く人ならば尚更。それがどんな人間であるかも、その後の彼に希望があるかなんてことも関係なく。
「ヘドが出るくらいくだらないな」
 そうだ、くだらない。容赦なく切り捨てられて、夏生は少しすっきりとした気分になった。
 本当にくだらない。いや、くだらなかった。あと少しで、こんなどうしようもない感情も過去形になる。振り返ってみれば、馬鹿げた衝動的な行為だと言われても全く反論はできない。結局姉の心配した通りになってしまったことに罪悪感もあるし、彼女らを残して逝くことに不安がないわけではない。
 けれどその代わりに、あの男を死なせずに済んだ。今目の前にいるこの男は――何故か、本人が言う通り、此処に居ても「大丈夫」であるという予感があった。だから、
「……いい。くだらなくて」
 くだらなくても、此処で死んでも、それならそれでいい。自分が居なくなった世界に後悔はあっても、留まることが不可能だと分かっていて縋りつくほどの心残りはなかった。
 感情を言葉にしたことでより未練が薄れたのか、夏生は自分の意識が途切れそうになってきているのを感じた。いよいよ限界が近いのかもしれない。徐々に強くなる気怠さに身を任せて、ゆっくりと目を閉じていく。
「本当はね、」
 呆れていたのか、暫くの間沈黙していた男が再び喋りだした。もう男の顔を見ることは出来ないが、その声の冷淡さからどんな表情をしているのかは何となく伺い知れる。
「自分から諦めた人間にくれてやる未来なんてないんだ。死にたい奴は勝手に死ねばいいし、生きたい奴は勝手に生きればいい、どちらにしろわざわざ手を貸すまでもない。だけどキミがココで死んだままでいることは、ボクにとって多少不都合だから」
 感覚の鈍くなった身体に何かが触れたと思うと、左腕の上部にチクリと痛みが走る。
「……?」
 不思議に思って夏生がもう一度重い瞼を開けると、腕を取って笑う男の顔が思ったより近くにあった。
「まあ、何か出来るなんて期待はしていないよ。今日は精々――」
 視界の隅で、男が右手に持った細い注射針が光った。

「『もう一度』、死なないように」
 
 

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