誰にでも優しくいる。
 いつでも、どこでも、『いい人』でいる。

 『優しい人』を、選んできた。

 ――優しい人に、なりたかった。


  「……っあ、ああ……」

 いたい。さむい。

 窓を突き破った際に切ったのだろうか。右脚に出来た傷からじわりと滲んで溢れだした液体の感触は止まる気配がなくて、栓が抜けた水袋からいずれ全身の血が流れ出して潰れてしまうような気がした。
 息を吸おうとしたけれど、唇を開いて飲み込んだ空気は喉を素通りするようで肺まで届いている気配がない。無数の掠り傷は耐えきれない程の熱を孕んでいるはずなのに、意識が浮上すると共にどっと身体を伝った汗に風が吹き付けた身体は氷のように冷たかった。
 何処か俯瞰するように遠くなっていた感覚が生々しく痛む身体に戻ってくると、落下の最中には忘れていた失望感までもが今更になって蘇ってくる。

 ドクドクと五月蠅く鳴る心臓とは裏腹に、いつまでも血の気を失ったように冷えた肌に土埃が当たる。落下の衝撃で巻き起こった砂煙の中で、緩く瞳を開けた先の風景は荒く霞んでいた。
 遅れてきた寒気が、カタカタと惨めな振動になって指先から全身へと広がっていく。思考は未だ深い靄が掛かったように曇って覚束ないのに、臆病な身体は勝手に何に対してかも分からない恐怖に追い付いて震えだした。
 緩い倦怠と、出所の分からない寒さだけがズキズキと痛む身体を支配している。

 月の見えない夜は暗い。大嫌いで一番近い自分の輪郭さえも掴めないくらいに。

 どうせ何も見えないのなら、――見たくないのなら。
 いっそ、ずっと目を閉じていてもおんなじだ。

 瞼を下ろすと、世界には益々自分ひとりきりになった、――はずだったのに。

「……っ」
 冷え切って動かない身体に、自分のものではない誰かの体温が移る。
 ――抱き締められている。そう気が付くのと、何か柔らかいものが自分の下敷きになっていることを認識したのは殆ど同時だった。

「あ、……」
 反射的に見開いた瞳に、ぼんやりと輪郭が滲んだ黒い影が映る。喉を振り絞って声を上げようとした瞬間、ぐるりと視界が反転した。
 背中に触れていた柔い体温が離れて、代わりに硬く冷たい地面が押し付けられる。顔の両脇に置かれた二本の手の感触に、押し倒された、と気付けたのは一秒後のことだった。
「ひっ」
 校舎から落下してきた茶色い輪郭が、僕を庇うように覆い被さった影に激突する。どん、と鈍い音がして、目の前の身体は衝突の振動でがくんと揺れた。彼の頭にぶつかって跳ねた机が地面を転がる音がして、此方に被さったままの影の輪郭はビクビクと痙攣する。崩れ落ちそうな程に震えた身体は、それでも尚此方を押し潰すように倒れ込んでは来なかった。
「……ぅッ、……」

 人影から耐えるように小さく洩れた息が顔に掛かって、あたたかい、と、場違いなことを思う。

 ぽたり、と微かな水音がして、すっかり冷えた頬に生暖かい水滴が落ちてくる。雨だろうか。朧げに浮かんだ思考は、身体を包む体温と同じ熱さの呼気と共に鼻腔に届いた鉄臭い香りに掻き消される。
 重なり合う二つの身体の間。押し殺しきれない呻き声を聞き逃せるほどの距離もないその隙間に、ふわりと生臭い血液の香りが充満した。秒ごとに濃くなるようなそれが誰から流れ落ちているものかなんて、

「大丈夫、か」

 見なくてもわかるのに目を閉じることができなかったのは。

「……鎧戸、くん」

 どうして、君は。


 落ちていく。

 窓の外へ落下していく細い体を、認識すると同時に両脚が動いていた。
 本体を失った窓枠を靴底で踏み締めると、縁に残ったガラスの破片がパリパリと音を立てて割れる。背後で聞こえた衝突音を振り返ることなく踏み切って、夏生は仄かに光る月が残る夜空へと滑空した。
 空中に飛び出した身体は寄る辺を失って頼りなく、階下から吹き付ける生温い風に煽られる。逆らうように瞼をこじ開けた視界の端で、見慣れた薄茶色の髪がふわりと揺れるのが見えた。一瞬だけ空へと伸ばされた男の手はふわりと脱力して、小柄な身体は重力に従って下へ下へと落ちてゆく。
「……っ!」

 届く! まだ!
 空中で掴んだ身体を掻き抱いて、小振りな頭を腕の中に閉じ込めるように抱え込む。高速で移り変わる景色を背景に抱き締めた青年の身体は、落下の衝撃で気絶でもしているのかぴくりとも動かなかった。
 ――落ちる。
 地上に着く直前で無理矢理に体勢を捻って、全身が彼の下敷きになれるように身体を滑り込ませる。背中を打ち付けた衝撃で一瞬呼吸が止まって、土埃に阻まれた視界が白く濁った。硬直した身体はアスファルトの地面に跳ねて転がって、抱え込んだ男の身体がびくりと震えた。
 ほっと息を吐こうとしたその時、頭上から、カラン、と何かが外壁を転がるような音が響く。咄嗟に押し倒した男の身体を庇うように覆い被さるのと同時、ガツン、と後頭部に割れるような衝撃が走った。焼けるような痛みが背中から内側へと広がって、修復が間に合わない腕の骨がきしりと軋む。
 大丈夫か。崩れ落ちそうな身体の脆さを堪えるようにして声を振り絞ると、何処か夢の中にいるような声が聞き慣れた自分の名前を呼んだ。

 緩く瞼を開けた緑色の瞳が此方を見上げる。

 ああ、生きている。
 たったそれだけのことに込み上げた安堵で、痛みはいつのまにか消えてしまった。


 呆然と呟いた僕を見下ろした彼がどんな顔をしているのか、ピントがズレたように曖昧な視界では満足に読み取ることが出来なかった。

 正常でない方向に折れ曲がった腕をずるずると引き摺るようにして僕の上から退いた鎧戸くんは、正面から此方の姿を一瞥するなりひゅっと息を呑み込んだ。
「……切れてる」
 地を這うような低い声が鼓膜に届いて、瞬時に鳥肌の立った身体がびくりと跳ねる。反射的に弁明の言葉を吐き出そうとした瞬間、耳元でびり、と何かを引き千切るような音が聞こえた。「ごめん」と。つい先程にも聞いた気のする言葉と共に、外気に晒された傷が生暖かい布切れに包まれて、ひりひりと引き攣る火傷のような痛みが少しだけ軽くなる。
 止血されたのだと理解できたのは、案外手際の良いその掌が動かない右脚からそっと離されて、労わるようにこの身体を起こしてからのことだった。
 背中から抱えるようにして此方の上半身を起き上がらせた青年の影は、立ち上がろうとすると同時にふらりとよろめいて崩れ落ちる。地面に手を突いた表紙にべちゃり、と嫌な水音がして、土埃の香りに混じって再びつんとする鉄の匂いが鼻腔を突いた。

「……おれが一度、逃し、て、……それで」
 目の前に座り込んだ黒い影から放たれる声は、普段以上にたどたどしく、要領を得ないものだった。脳震盪でも起こしているのかもしれない。常よりもどこかあやふやで宙に浮いたような声色と震える身体からは、先程の落下と衝突の影響なのであろう意識の混濁が見て取れた。
 単語一つを絞り出す度にひゅうひゅうと息を大きく吸う音が混じって、低く穏やかな声は苦しげな呼吸に掻き消される。
「気絶、してて……遅れた」
 途切れ途切れに吐き出される言葉はとても聞くに堪えないものであるはずなのに、「ごめん」と、心底所在なさげな響きで零された声は、相も変わらずぼやけた意識の奥にもはっきりと意味を孕んで届いた。
「……」
 ――僕も何か、言わなければ。
 「大丈夫」とか、「ありがとう」とか。「ごめんなさい」とか、「おかげで助かったよ」とか。
 きっと彼が求めているであろう言葉を、きっと彼が求めているであろう表情で。

 頭の中でリハーサルした言葉を、すぐに吐き出せるように喉の奥に詰め込んだ。唇を開いて、口角を吊り上げて、台本に書かれた通りの台詞を舌の上に乗せる。
「鎧戸くん、」
 そうしたらきっと僕は、彼は――きっと、

「行ってくる」

 ぼんやりと、しかし確かな感情を持って呟かれた言葉に、舌先まで出掛かっていたはずの言葉はあっけなく吹き飛んだ。

「行く、って」
 呆然と呟いた僕のことなど見えていないかのように、目の前の影は見えない糸に吊られるような素振りでゆらりと立ち上がった。よろめく青年の輪郭から尚もポタポタと垂れる水音が鼓膜を抉って、思わず耳を塞ぎたくなる。
「危ないだろう、このままだと」
 当たり前のような声で紡がれた言葉を、心底、わからない、と思った。
「、……街へ行く、かも、しれないし……ここへ来るかもしれない」
 「だから行ってくる」と。いつも通りの温度で話した青年の言葉が、一つ一つの単語の意味はわかるのに何処までも理解できない。
 苦しげな呼吸音混じりの声色には何を取り繕おうとする気配もなくて、それが余計にドクドクと五月蠅く鳴る心臓を締め付けた。
「お前はここで待っててくれ。なんとか、する」
「……なんとか、って」
 ――何をする気だ。ぽつりと漏らした言葉を拾って、目の前の影がこくりと素直に頷いたのが空気の動きで分かった。
「倒す、だめでも、……引き離す」
 呂律の回らない舌先から紡がれた言葉は、何処までも本気で、素直だった。

「だから、大丈夫だ」

 黒手袋を嵌めたままの掌がたどたどしく此方に近付いて、宥めるようにそっと肩に触れた。手足を動かす度に濃くなる血の香りと指先から微かに伝わる振動が、青年の負った手傷の深さを物語っていて、「大丈夫だ」と本心から繰り返された言葉は生温い空気の中をただ上滑りする。
 脳の奥がじんと痺れて、熱いのか冷たいのか最早分からなかった。じわりと噴き出した汗が乾き始めた血液と溶けて滲んで、自分というものの輪郭がひどく曖昧になる。
「……心配、しなくていい」
 穏やかな言葉と共に掌が離れて、右肩を包んでいた体温がゆっくりと剥がれた。
「お前はやさしいから、……気に病んだり、するかもしれないが」
 大丈夫だから。
 鉄臭い空気に混じって吐き出された言葉と共に、ざくり、硬い靴底が砂利を踏み締める音が聞こえて、無防備な背中が此方を向いた。ゆっくりと遠退いて行こうとする後ろ姿に思わず喉奥から飛び出しそうになった言葉を、寸での所で冷めた理性が押し留める。

 このまま、――このまま。見送ってしまえばいい。
 黙って、笑顔で、いつも通りに。
 今日までの僕が、ずっとそうしてきたように。

 思わず伸ばし掛けた手を下ろして、拳を固く握り締める。
「……」
 ――あと一歩。彼が前へと踏み出せば、僕の手はもう二度と届かなくなる。
 不意に、影が此方を振り向いた。

「俺のことは、気にするな」

 何処までも優しげなその声を聞いた瞬間。
 頭の中でぷつりと何かが切れるような音がして、気が付くと腕を掴んでいた。

「もう、いいよ」

「っ、……? 阪――」
「もう、」
 ぽつりと吐き出した言葉は、自分でも驚くぐらいに冷えた響きを帯びていた。

「やさしくしてくれなくていい」


 ――失業した父親の頼みで学校を辞めたときも、何処か後ろめたいような表情で討伐隊への入隊を頼んできた時も。不思議と特段な悲しみは湧いてこなかった。自分が今まで此処で果たしてきた役割は、些細な収入と引き換えに無くなっても構わないもので、自分はその程度の人間なのだと、改めて自覚しただけだ。
「大丈夫だよ」
 きっとこう言ってほしいのだろうと思ったから、そう笑って頷いた。

 父がどんな顔をしていたか覚えていないのは、多分、特に目に映したいと思わなかったからだろう。 


「阪……、」
「心配なんか、してないよ」
 戸惑ったように名前を呼ぼうとする声を強く遮ると、目の前の影が微かに息を呑み込んだのが分かった。

  「僕は、君が思っているような人じゃない」

 喉奥から飛び出した声の色がぞっとするほど冷たくて、ああ、自分はこんな声も出せたのかと今更になって思う。がしりと強く掴んだままだった腕を強く引くと、僕よりも一回り大きい青年の身体は思いの外簡単に崩れて近くに膝をついた。
 突然のことに驚いたのか、右手で強く握りしめたままの彼の手首の筋肉が硬く強張って、けれども振り払われはしなかった。そんな鈍い甘さが何処までも素直な彼らしく滑稽で、――自分はきっと、今、すごくひどい顔をしている。
「――あのね、鎧戸くん」

 座り込んだ青年の耳に届くように、はっきりと、言い聞かせるような口調で口を開いた。
 ――ずっと、君に言っていなかったことがある。
「君が僕と学校の話を聞いた日、……僕も、あの人から君の話を聞いたんだ」

「君が、どうして――『強化人間』になったのかを」


「鎧戸くんは、」 
「蕪木さんから謝礼の話は聞いた?」
「ああ、お前も……。……それが?」
「いや、その……、別に、大したことじゃないんだけど」


 『境界』は閉鎖されて外へは行けないことになっているけれど、時折好奇心からか、他の目的からか、あの鉄条網を踏み越えて外に出て行こうとする人達がいることは知っていた。

 ――そういえば、鎧戸くんはあの人から検査に呼ばれたのだったか。
 鉢合わせしないといいな。逃げるようにして飛び出した居住スペースを後にして、研究室へと続く通路をとぼとぼと歩きながら、秋人は不安定な内心を落ち着けるように小さく息を吐いた。
 初等学校の頃には、同級生の誰々が外へ向かっただとか、異形を見ただとか、そういった噂を聞いたこともある。けれど当人達から聞かされるそれらは全て、子ども特有の穴だらけなつくり話であったし、それ以外から『境界外へ行った』と語られる人間達のことは、本当に外へ行ったのか、はたまた別の原因で行方知れずになったのか、幼い僕には判断がつかなかった。この街で「いなくなった」人間はどの道帰ってこないので、本当の所はわからない。
 『四人目』が境界外で発見されたと聞いた時には、大方機関の追っ手から逃げている内に入り込んだのだろうと思った。保身のためにしかたなく逃げ込んだのだろうに、その先で異形と出遭ってしまうなんて。随分と運が悪いな、と、それぐらいに考えていたのだ。
 けれど彼のことを知る内、話している間に、少しの疑問が湧いてきた。初任務の時ですら柊くんを心配して屋上から飛び降りて行ったような彼が、――謝礼金のことをあんな風に言った彼が、自分が襲われた程度のことでそこまで慌てるものなのだろうか。

 だから、訊きに行った。自分にしては思い切ったことをしていると思ったけれど、なんだか――どうしても、知らずにはいられないような気がしたから。

「どうして、というのは」

 コップになみなみと注がれたコーヒーを一口だけ飲んで。恐る恐る本題を切り出してみると、『ドクター』と呼ばれる男性は、金色の瞳を僅かに見開き、何やら興味深そうな顔で頷いた。
「彼が強化人間になった『理由』を訊いているのか、それともその結果に至る経緯が知りたいのか。後者なら、ボクがキミに提示すべき回答は『身体的な適性ゆえ』の一言になるが!」
「……え、っと、経緯、の方を」
 回りくどい言い回しに戸惑いつつも、意味も無く難解な言葉をどうにか頭で噛み砕きながら答える。「そうか」と頷いた男は、キャスター付きの椅子の上で足を組んだまま、先程とは打って変わって静かな口調で話を進めた。
「――出来事は、それを観測する者の味方によって歪曲される。ボクが話す出来事は、現実に起きた事象そのものではなく、ボクの目というフィルターを通した記録に過ぎない」
 ボク達に共通の視界というものは存在しない。それでも訊きたいかいと笑った男に、僕は訳も分からぬまま頷いていた。

「――では、それらを踏まえて、ボクが知る限りの出来事を、極力キミが観測するであろう形に近いものに歪曲して話すなら。彼は――」


 雨が降っている。
 死んだように眠る青年の横顔が、やけに鮮明に瞼の裏にこびり付いていた。


「全部、聞いたよ」

「君が、どうして『強化人間』になったのか。……誰をどんな風に助けて、どんな目に遭ったのか」
 『忘れ物をした』なんて見え透いた嘘を信じ込んだ君は、僕があの人に会いに行っていたなんて疑いもしなかったけれど。
「そこで、やっと、……本当の意味で、分かった」
「……」

「君と僕は、『同じ』なんかじゃないって」

 自嘲と他傷を込めた乾いた笑いを漏らすと、強く握り込んだままの手首がピクリと跳ねた。

「――僕が、人の言うことに従うのはね。別に優しいからじゃない。ただ、人に嫌われたくないからだよ」

 堰を切ったようにして溢れ出した言葉はもう止まらなかった。
「嫌われたくないのは、見捨てられたら困るから」
 言うな。理性はずっとそう叫んでいるのに、言うことを聞かない口は勝手に聞きたくもない内心を赤裸々に吐き出していく。

「最初から、あなたに逆らいませんって顔をして、下手に出て、ハイハイって人の言うことを聞いてれば、誰も僕を攻撃してこない。誰も僕を嫌わない。――誰にでも都合のいい、大人しい奴でいれば、誰も攻撃なんてしてこないのに。本当のこと言ってわざわざ敵を作るなんて、ばかみたいだから」
 ――思った通りのことを言えるのは、強い人だけの特権だ。曖昧に浮かべた苦笑いの内側で、ずっと、そんな風に思っていた。
 人は誰も、一人きりでは生きていけない。だから自分が生きていくために、自分の役に立ってくれる存在を求める。
 少しぐらい人の気分を害することを言ったって、それを我慢しても尚この人が必要だと思える程の能力がその人にあるのなら、誰も文句を言ったりしない。多少自分勝手に振舞ったって、そう簡単に立場が揺らぐことはない。
 けれど僕は違う。生きているだけでは誰の役にも立てない僕が其処に居ることをゆるされるためには、居場所を保つためには、彼らにとっていつでも無害で、少しでも有益な存在であることが絶対に必要だった。

「優しい人でいなくちゃ、いつも『大丈夫』って言って、都合のいい奴でいなくちゃ、なにもできない僕なんて、簡単に見捨てられちゃうもん」

 ――人から見捨てられたくないから、痛い思いも、つらい思いもしたくないから。ただ、『いい人』でいようとした。
「殴られたらいやだし、怒鳴られるのはこわいし、喧嘩するのなんて面倒くさくてしかたない……!」
 怖いことはいやだった。傷付くことは嫌いだった。
 誰にとっても都合の良い人間で居さえすれば、きっと誰も僕を嫌いにならない。
「誰にも迷惑なんてかけてない。悪いことなんてしてない。だから、それでいいと思ってた」
 僕は、『優しい』人であることを、そういう生き方を選んだだけだ。
 そうすれば何もかもから見逃されて、いつまでも平穏に、波風の立たない人生を生きていけると思っていた。

「けど、違った」

 父さんは僕に学校を辞めてくれと言った。母さんは討伐隊を薦めた。二人とも、僕がお金と引き換えに機関に連れて行かれることを止めなかった。クラスメイトは、きっともう僕のことなんて忘れている。
 こんな所に来るまで、気が付かなかった。

「誰にでも『都合がいい』だけの人間なんて――ただ、嫌われないだけで、好いてなんてもらえない」

 地面に付いた方の左手を握り締めると、手袋越しの肉に丸く切った爪が食い込んだ。
 呆然としているのか、黒く滲んだ人影は、ただ静かに此方を見つめている。いつの間にか緩んだ涙腺からぽろぽろと溢れ出した水滴で、ただでさえぼやけた世界の輪郭は益々不鮮明になる。
「……家族に見捨てられたって思ったとき、僕は、それ自体が寂しいんじゃなかった」
 『みんな』に、好かれてないことが悲しいんじゃない。この先会えなくなることが辛いんじゃない。ただ、これからの自分の身の安全が保障されていないことが、明日の自分がどうなっているのか、ただ、それだけのことが怖くてしかたなかった。
 役に立たない人間なんて価値が無い。そう思っているのは、誰よりも僕の方だった。
「みんなが今頃元気にしてるかとか、『家族のためになれてよかった』とか、これっぽっちも思わなかった……」
 自分の命と引き換えに渡されるお金を「ありがたい」なんて思える君とは違う。
「僕は、……世界のためとか、人のためとか、家族のためとか」
 見ず知らずの人間のために、あんなにも傷だらけになれる君とは違う。
「そんなの、どうだっていいんだ」
 僕はいつだってその場をやり過ごしたかっただけで、嫌われたくなかっただけで。誰かのためになろうなんて考えたこともなかった。誰かを助けるのは、いつだって誰かに自分を助けてもらうためだ。借りを作って、居場所を作って、『いい人』だって思わせて、簡単に足元を掬われないようにするためだ。
「人のために、自分がつらい思いをするなんて嫌だった」
 誰かの幸せの踏み台になるなんて、ずっと真っ平御免だった。自分ではない人間のために、自分を好いてもくれない人間のために、どうして自分が擦り減らなければいけない? 映す価値もない世界のために、どうして自分が目を凝らさなければならない。

「僕は、……誰のことも好きじゃなかった」

 ――家族、クラスメイト、周りの人達。かつて確かに目の前に居たはずの彼らの表情が、すべて記憶の中で霞んで思い出せない。
「……誰からも大事にされないのは、僕が、誰のことも大事にしなかったからだ。誰にも、本当に優しくしたいなんて思ったことがないからだ」
 いつからか何処までもどうでもいいものになり果てた世界は、瞳という主観的なフィルターを通して、段々とその形を見えなくさせた。――見たく、なかった。

「……こんなぼくが、『強化人間』なんか、できるわけないんだよ」

 握り込んだ指先が掴んだ身体から、微かな息遣いが聞こえた。
 僕は、どうしてこんなに弱いんだろう。どうして彼のように他人を守れないのだろう。どうして彼のように家族を愛せないのだろう。どうして彼のように強くいられなくて。どうしてこんなに何もかもが怖くて、どうして、どうして。

「僕は君とは違う。君みたいにはなれない」

 ――どうして、彼のように優しくなれないんだろう。

 強く握り締めた手首は、いつの間にかすっかり血の気が失せて冷たくなっていた。ゆっくりと指を剥がして最後に縋りついていた体温を手放すと、真っ白な視界の中には本当に僕だけしか居なくなった。
 一人で居たくて、一人が怖くて。自分が一番嫌いなのに、自分が助かるためにすら異形に立ち向かうことができない。
 こんなこと、ほんとうは言いたくない。こんなに醜くてどうしようもない自分は、見たくない。誰にも見せたくない。なのに、

 君が、――こんな夜の底まで、助けに来てしまうから。

「もう、放っておいてよ」
 こんな人間のことなんかもう、見捨てて、忘れて、囮にでも何でもすればいい。 君を守ってくれない人間のことなんか踏み台にして、何処へでも、行きたい所へ行ってくれたらいい。だから、どうか。

「お願いだから、……」

 こんな人間のために、もう――


「……お前、は、……」
 真っ白に霞んだ視界の中で、最早うっすらとも見えない人影がゆっくりと身動ぎする気配がして。

「お前と俺は、違うな」

 吐き出された言葉はひどく静かに、僕の心臓を突き刺した。

 呼吸が止まる。じくじくと火傷したように熱い胸の内が、物理的なものではない痛みを訴えて疼きだして。カラカラの喉から振り絞る声は、とんでもなく無様で汚く震えていた。
「……だ、から」
「お前は、こわいんだな。自分が傷つくのが。自分が思うことを話して、嫌われて、見捨てられるのが。……死ぬのが」
「だから……っ!」
 数十秒前までの自分が捲くし立てていたことなのに、彼の唇から吐き出されると心臓が潰れそうに痛い。
「そうだよ! 僕はずっと、そう言ってるじゃないか!」

 そうだ。だから――だから、君が眩しかった。

 あの時、『同じ』だと言ってもらえて、ほんとうは嬉しかった。
 部屋の隅で縮こまっていた役立たずでちっぽけな自分が、裏表のない彼の声で掬い上げられて、少しだけ、其処にいることを許されたような気がした。
 けれどこの身体のこと、家族のこと、世界のこと――ひとつひとつ話す度に、決して埋められない差を、違いを思い知らされて、時間が経つごとに強い罪悪感と自分への失望ばかりが募るようになった。

 僕は、君みたいに優しくなれない。君みたいに正直になれない。君みたいに戦えない。
「じゃあ、」

 君みたいに、誰かのための犠牲になんかなれない!

「――何で、今、それを言ったんだ」

「……え?」
 思わず口から零れた声は、自分でも驚くぐらいに間抜けだった。


 人のことをわかることは、とても難しい、と思う。

 俺の問いに俄かに見開かれた瞳も、止まらない涙に濡れて震える睫毛も。
 目の前にいる男は、全てが自分とは違う人間だった。
「……だ、だから……」
 俺がこれまで生きていて感じた全てのことを言葉に変換できないのと同じように、先程までの、これからの阪田の言葉も、きっと彼の全てを伝えてくれはしない。彼がこれまでの十七年の人生で悲しんだこと、憤ったこと、考えたこと。その全てを彼と同じ温度と感度で再生することなんて、きっと何年かかったって誰にもできやしないのだ。
「本当のことを言うのが嫌なら、……痛いのが嫌なら。俺のことも、黙って見送ってくれれば良かったのに」
 黙って「気を付けてね」とでも言ってくれてたら、それで良かったのだ。
 こんな風に本音を暴露するような真似をしなくても、俺は何の違和感も持たずに此処を去って異形の元へ向かっただろうし、彼は今のような恐怖を負わずにいられる。本心を口にせず自分の身を守りたいのなら、そうするのが一番賢かったはずなのに。
 少なくとも、阪田自身が俺に語った阪田という男は、そんなことも計算できない程直情的で馬鹿な人間ではないはずだ。

 人のことはわからない。他人というものは自分のように矮小な人間が理解するには広大すぎて、血の繋がった家族のことですら時には見失ってしまう。ましてやこの数週間、数分間分の彼しか知らない俺は、せめて今この目に映る全てを見逃さないように、瞬きを忘れて瞼を開いていることしかできない。

 自分の目で見て、――自分の心で、考えることしかできない。
「お前はどうして、俺に、こんなことを話してる?」
 自分自身のことすら分かりかねるような、戸惑いにあふれた顔を。大きな瞳からぼろぼろと零れる涙を、震える声を、全部、見逃してはいけないと思った。
「それは……っ、だって……」
 人の全部は、わからないかもしれない。
 彼と俺は違う人間だから。違う頭を持って、違う耳で聞く自分でない人間だから。
 でも、だから、

 目を開けて、――ちゃんと、見よう。

「君が死んじゃうのは、嫌だから……」

 見えるものも、見えないものも。今この瞬間の彼のことを。彼に見えていないものまで。
 彼にしかわからない痛みがあるように、俺にだけ見えるものもあるはずだから。

「……君みたいな人が、」
 薄い涙の膜に覆われた緑色の瞳が、徐々に明るくなる空から零れてきた光を反射してきらきらと輝く。
「嘘をつかれたまま、僕なんかのために死ぬのは……」
 いやだったから。
 嗚咽と一緒に吐き出された小さな声は、不思議にはっきりと夏生の耳元まで届いた。
 ぐしゃぐしゃに濡れた男の泣き顔はなんだか子供のようで、けれどその微かな声に籠る激情と、爪が食い込む程に強く握り込んだ両の掌は、彼が確かにその身体に宿した意志の強さを示している。

「……止めようと、してくれたんだな」
 握り返す前に離れていった手を、今度は俺の方から掴んだ。
 硬く拳を作った掌の上から、そっと自分の指を重ねる。すっかり冷えた手の甲を手袋ごとぎゅっと強く握り締めると、薄い生地越しに伝わる彼の体温がびくりと小さく跳ねたけれど、すぐにでもなくなってしまいそうな壊れ物に触れるような恐怖はもう湧かなかった。
 ――此奴は、そんなに弱い人間じゃない。

「阪田、……阪田、」
 ずっと呼んでいたはずなのに、初めて呼べたような気がした名前を繰り返す。
「ありがとう」
 きっと、怖かっただろうに、嫌だっただろうに。
「聞けて、うれしかった」
 話してもらえて、うれしかった。
 ――だから話そう。俺も。阪田が自分に施してくれた尽力に値するようなものではないけれど、俺が、彼に話したいと思うことを。
「俺も、一つ、……お前に言ってなかったことがある」
「……?」
 唐突に洩らした言葉に、阪田は不安げな表情で大きな瞳を揺らした。少しだけ充血した白目の真ん中を位置取る緑色の瞳があまりにも綺麗で、夏生は強張っていた自分の頬がするりと緩むのを感じた。
「俺は多分、あんまり」

 遠くで、きっと其処まで距離のない場所で、獣が吠える声が聞こえる。
 誰も居ない街の隅。古びた校舎の陰に座り込む二人は何処もかしこも傷だらけで、こうしてただ向かい合って見つめ合っているのは、なんだかひどく場違いなことだ。
 分かっているのに、――鉄の味がする唇から零れた声はどこか爽やかで、内緒話でもするような心地だった。
「怖くないんだ、戦うことも、死ぬことも」

 美しく丸い瞳が、驚いたように大きく見開かれる。
「だから、俺とお前は同じじゃない。けど、――その方がいい」

 心臓から込み上げる感情のままに溢れた言葉が、可能な限りはっきりと、彼の目の奥まで、そのまま届いてくれたらいいと思った。
「初めから何も感じない奴なんかより、……嫌なのに、怖いのに、それでも立とうとする奴の方がずっと強い」
 硬く重ねた掌の指を、ひとつひとつ解いていく。いつの間にか温もりを取り戻していた手を離すのが、何故だか少しだけ名残惜しかった。

 柔らかい朝の気配を背に浴びて立ち上がった身体は、先程よりもずっと軽く感じた。
「俺になんかならなくていい。そんなことは必要ない。……そんなことしなくたってお前は、初めから、俺なんかよりずっと」


 日が昇る。
 薄靄が掛かったようにぼやけた景色の輪郭は緩やかに繋がって、やがて一筋の線になった。

「優しくて、勇敢な奴なんだから」

 夢から覚めるように開けた視界の中で、彼が笑う気配がする。
 柔らかな光のようにこぼれた微笑みは、今まで見たどんな朝よりもきれいだった。


 

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