EX:The fog and filthy air



 備品室から持ち出した黒い傘は勿論成人用であるものの、平均よりは大柄な自分の体躯を庇いきるには少し華奢すぎる。


 ――やはりレインコートでも用意しておくべきだった。未だ止む気配のない雨を見上げて、蕪木二郎は小さく肩を落とした。
 露先から滴り落ちる雨が上着の生地に染みて、六月の濡れた空気は時が経つごとに不快さを増していく。
 この鬱陶しい天気のせいだろう。浮浪者達も皆何処かで雨宿りをしているのか、まだ夜中には届かない時刻にも拘わらず、『境界』に程近い貧民街の路地裏にはまるで人の気配がなかった。常ならば厳重に警備されるべき鉄条網沿いの細道にも、未だ続く監視塔の混乱の影響か兵士の姿は見当たらない。
「……」
 本当に此処で合っているのだろうか。時折鉄条網に擦れてカツカツと音を立てる傘を少し窄めて、蕪木は霧の先に見えるはずの探し人の影に目を凝らした。
 四人目の適合者が発見されたと、中央政府の息が掛かる血液業者から報告が上がったのが数日前のことだ。予想外の僥倖に機関は気忙しく受け入れの準備を進め、業者には『彼』が再び現れ次第保護して、此方に連絡を寄越すようにと手配を済ませていた。
 そして今日。その迎えに走らせた車の中で、半ば泣き出しそうな声色の業者から「男を逃した」と知らせを受けたのが一時間程分前のこと。慌ただしく彼らの元へ向かう自分を、同行していた上司と同僚が車内で見送ったのが数十分前。

 ――徐々に強くなる雨を掻き分けて車に戻った時、確かに先程までは後部座席に座していたはずの上司の姿は忽然と消えていた。


「……」
 夜と雨に紛れた路地の奥。視線の先に見慣れた白い後ろ姿を見つけて、蕪木は安堵とも呆れともつかない溜め息を吐いた。

 鉄条網に凭れて腕を組む背の高い男の全身は、今尚バケツを返したように降りしきる雨でぐっしょりと濡れている。
 ――せめて軒下にでも入ればいいものを。己の顔に浮かんているであろう呆れの表情を意識的に消して、蕪木は漸く探し当てた人の『識別記号』を口にした。

「……ドクター」

 出来る限り平静を心掛けた声には、それでも隠しきれない疲労の色が滲む。
 こんな天気だ。彼と彼女から珍しく「自分も同行する」と聞かされた時も、どうせ外を歩くのは自分一人だろうと高を括ったのが失敗だった。傘を一本しか持って来なかったのは自分の落ち度だが、だからといってこの雨の中を身一つで出て行く方の精神もどうかしている。
「遅かったね」
  「……」
 事も無げに呟く人の口振りからは、分かっていたことだが雨に濡れた疲労も此方への罪悪感もまるで感じ取れなかった。
 反射的に「申し訳ありません」と頭を下げて、手元の傘を男の頭上に傾ける。ここまで濡れてしまった後では最早何の意味もないが、上官の前でのうのうと自分が傘の下に居るわけにもいかない。
「……恐れ入りますが。次回からはもう少し詳細な現在位置を指定していただけると」
 ――『次回』など、金輪際無いにこしたことは無いのだけれど。
 雨の中に一人フラフラと出て行ったらしい男から、「適合者に会った」と連絡を受けてから、こうして迎えに来るまでに確かに時間は掛かったものの。この混乱の中、『境界の近く』とだけ居場所を伝えてきた彼を三十分以内に探し当てられたのは奇跡に近い。
 今回は無事に合流できたから良かったが、この辺りは日中であっても治安の悪い地区だ。設立者の一人にして研究部門の統括、代替の居ない立場なのだから、あまり迂闊な行動をされては困る。
「善処しよう」
 抑え切れない嘆願を声色に込めて言葉を吐くと、男はまるで何も堪えていないような顔で笑った。あまりにも手応えのない反応に、最早彼の無謀な行動を諌めることは諦めて、話題を建設的な方向に切り替える。

「……ところで、『彼』は? 先程から姿が見えませんが」
 『強化』は成功したと聞いていたが、霧のような豪雨に包まれた路地を見回しても四人目の『強化人間』らしき影は見えない。
 ――まさか、また逃走された後なのだろうか。待ち受ける後処理への不安に苛まれていると、金色の目を僅かに細めた上司は淡々と言葉を接いだ。
「置いてきた」
「置いてきた!?」
「このボクが『境界外』に倒れた男を腕一つで引き摺って来られるとでも思っていたのか。無理だな!」 
「倒れてたんですか!?」
 喉奥から飛び出た声が暗い路地に反響して、慌ててはっと口を押さえる。
「位置はどの辺りですか、救援を手配します」
 慌てふためいて通信機を手にした俺を、ドクターはしかし「その必要はない」と片手で制した。
「ツカサ君には連絡した。生きていれば、彼が回収してくるだろうよ」
「しかし、」
「死んでいたなら、」
 闇夜に浮き立つ病的なまでに白い顔が、相変わらず真意の読めない瞳で笑う。
「その時は、その時だ」


「ところで、先程からあえて視界から排除しているようだが、」
「……」
「――キミは寧ろ、『これ』の処理に頭を悩ませておくべきだろうな」
 足元に転がる首のない男の身体を漸く直視して、蕪木は苦々しく頷いた。


 視界の端に転がる男の死体に、雨粒で曇るフロントガラス越しにそっと手を合わせて、手元の通信機を起動する。
「……こちら機関、蕪木です。報告します、対象の境界内侵入による死亡者一名を確認。性別は男性、……身元は確認中。後処理の手配を願います。場所は――」
 切り口を確認したいから先に戻っていたまえ。そう言い出した上官を結局外に残して、俺は一足先に古びた公用車の車内に戻った。
 うっすらと汚れた乗用車の車体は、寂れた街の景色に違和感なく溶け込むには最適だが、生温く濁った空気が充満する車内は何処となく手狭で居心地が悪い。近くの路地に停めていた車を男の姿が見える位置まで動かしてから、蕪木はハンドルに凭れかかるようにして目の前の景色を見つめた。

 青ざめた月のような色の髪が揺れて、長い白衣は多量の水分を含みつつも時折吹く風につられて軽やかに翻っていた。何者をも包み隠しそうな豪雨と暗闇の中で、彼の居る場所だけが世界から切り取られたように浮いている。
「……あの人は本当に、いつも変わりませんね」
 いつ見ても人外の存在としか思えない男の後ろ姿を目の当たりにして、自然と愚痴とも感嘆ともつかない言葉が洩れる。人種が異なるせいもあるのだろうが、付き合いだけはそれなりに長いはずの上官の立ち振舞いは、いつだってどうにも芝居がかっていて現実感がなかった。
 ――相変わらず、何に対しても隙というものが見えない御人だ。淡々とした手つきで死体を弄る男の表情は此処からでは見えないが、恐らくいつも通りの飄々とした笑みを貼り付けているのだろう。せめてと手渡してきた黒い傘は、やはり呆気なく路傍に放り投げられていた。

「そうでしょうか」

 後部座席から響いた彼女の声は静かで、いつも通りに淡々としていた。
「!」
 答えを期待せずに零した声に返ってきた言葉に、蕪木は僅かな驚きを覚えて目を瞬いた。
 同僚は元から話嫌いな方ではないが、此方の何の意味も持たない独り言にまで律儀に反応を返してくることは稀だ。
「……どういう意味ですか?」
 ――珍しい。薄暗い車内に際立つ大きな瞳とバックミラー越しに目が合って、いかなる時も光を宿さないその色を見つめたままに言葉を返す。
「『いつも』と比較して。非常に、非効率的だ、という意味です」
 意図の読み切れない言葉に尚も首を捻っていると、同僚は相変わらず機械音声のように起伏のない声色で告げた。
「連絡を受けてから貴方が此処に到着するまで、優に二十分以上は経過しています。死体の状態の確認はその間に充分終えられたはずです。それから、」
「……」
「あの人が外を出歩く姿を見たのは、私が此処に来てから初めてですが」
 ――そういえば、そうだったかもしれないな。
 思わずフロントガラスの向こうの上官の姿を見返した蕪木の耳元に、先程までの声色よりは何処か外郭がぼやけた、独り言のような女性の声が届いた。
「――『彼』は、いつ特務機関(こちら)に来られるんでしょうね」

 ガチャリ、と、後部座席のドアが開く音がする。
 扉のロックを掛け忘れていたと気が付いたのは、コツリと音を鳴らすハイヒールの底がアスファルトの地面に降りてからだった。
「ちょ、女史!? 何処へ、」
「早退します」

 途端に豪雨に晒される身体を気にする様子もなく、風変わりな同僚の背中は躊躇いもなく埃と雨に塗れた夜の中へと踏み出していく。呆然と固まった自分を他所に、降りしきる雨に濡れた黒髪は仄暗い闇夜に溶け出すように揺れた。

「私も、」

 音も無く振り返る女の真っ赤な瞳は、月明かりに照らし出される血液のように鮮やかだった。


「調べたいことができたので」
 
 

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