いつだって一番きれいでやさしい言葉だけが心臓を貫くのだ。
 ■がきっとそんなものではないことを、いつだって■だけが知っている。
 


6:Fair is foul, and foul is fair.

6-1



 握り込んだペンをぱきりと折ってしまわぬよう、プラスチック製の軸に添わせた指先に神経を集中させる。

『8月10日、A-1地区、午前7時。異形を発見』

 恐る恐る紙面に下ろした筆先の滑り出しは順調で、思いの外滑らかな書き心地に知らず緊張が緩む。図に乗ってそのままたどたどしい文章を書き連ねていると、手元から微かに何かが軋むような音が聞こえて、慌てて一度手を止めて小さく息を吸った。
 ――漸く鉛筆を持つことに慣れてきた自分にと秋人が分けてくれたものなのに、此処でまた駄目にしてしまっては台無しだ。
『大きさは2メートル半。場所、サクラダビルの、』
 屋上。おくじょう。
「……」
 ――あれは、どういう字を書くんだったか。どうにか半分まで埋まった報告書を膝の上に置いて、鎧戸夏生(よろいどなつき)は静かに床に転がしていた辞書へと手を伸ばした。

 これまでは他の三人に任せてしまっていたからよく知らずにいたが、基本的に報告書の提出は任務があった日の翌々日までだ。異形の数等の簡単な報告は帰還時に口頭で済ませているものの、そこに至るまでの詳細な過程や発生した出来事については、任務を実行した本人――要は、『強化人間』である自分達が書き記した報告書で記録を取っておくことになっている、らしい。
 夏生が記述を任された、というより、自分から「書いてみる」と申し出た任務は、九日の夕方から十日朝に渡って行われたものだ。そして本日の日付は八月十二日。つまり、今日が締切だった。
「……」
 八月。初めて此処に来た日からは、もう一月半近い月日が過ぎている。

 まだまだ新人扱いではあるが、機関から支給された生活用品の整理も多少は落ち着いてきて、この地下施設での生活にも少しずつ慣れつつある。異形の討伐以外の作業についてもこれまでは大目に見て貰っていたが、そろそろそう甘えてもいられない頃合いだろう――と、思ったのだけれど。
 秋人との一件があってからは度々字の練習も続けているし、此方の能力も少しはマシになったかと思ったのだが。読む方に関しては少し改善してきたものの、自分で文字を書くとなるとやはり多少は時間が掛かる。
 漸く事情を話せた蕪木さんからは、問題があれば後から書き直すから全て平仮名でも良いと許可を貰ってはいるものの。お世辞にも綺麗とは言えないそれを解読する彼や他の職員の手間を考えると、それはあまりに申し訳なく情けなかった。
 ――時間は掛かるけれど、どうせ任務で呼び出される以外には大した用事もない身の上なのだ。少しでも人に余計な労力を掛けずに仕事ができるようになった方が良い。

 コンクリート張りの床に広げた書類を踏んでしまわぬように足を崩しながら、革張りのソファの背の裏側に身体を預ける。
「……、」
 屋上。心の中で繰り返して、両手で開いた辞書を「お」の行までぱらぱらと捲った。捲りやすくなるようにという配慮なのだろうが、分厚いそれに使われた用紙は一枚一枚が随分と薄くて、黄ばんだ表紙を開く度に破きやしないだろうかと心配になる。

「屋上」
 小さく声に出しながら探すと、目当ての項目の下には既に赤い傍線が引いてあった。
 ――前の持ち主も、自分と同じ所で詰まっていたのだろうか。薄茶色に変色した紙面の上、几帳面に引かれた直線がやけに目について、夏生は暫しいつ書かれたものかも分からないインクの跡をじっと見つめた。

 自分が使っている筆記具たちの殆どは秋人から分けて貰ったものだが、この辞書だけは事情が違う。

 あれは一週間程前、丁度自分の番で使い切ってしまった石鹸の替えを探していたときのことだ。
 地下施設の共有スペース。四人で使っている洗面所の脇には、人ひとりが漸く入れる程度の大きさの物置き部屋がある。日頃共同で使う生活用品の蓄えもその辺りに入っていることは秋人から聞いていたので、特に臆することも無く薄く埃を被った小部屋の中を漁った。
 乱雑に山積みにされた段ボール箱をガタガタと動かして、見覚えのある青いパッケージを探していた途中。数多の古本と共に落ちてきて夏生の頭を強かに打ったこれは、突然の物音に驚いて寄ってきた彼ら曰く、初等学校向けの『国語辞典』であるらしい。
 使いこまれたそれがどうして此処に置いてあるのかは春日江と柊も知らないらしく、結局元の持ち主は判明しなかったが。『あるのだから使えば良い』という春日江の言葉に甘え、こうして時折借りてみるようになったのだ。

「……」
 ――初めの頃は単語の引き方も分からず首を傾げていたが、慣れてくるとなかなか面白い本だ。
 屋上、意味。
「屋根の上」
 音読しながら、それはそうだな、と頷いていると、背後から呆れ切ったような冷えた声が飛んだ。

「うるさい」
「悪い」

 ぴしゃりと飛んできた声に反射的に謝罪すると、ソファの背から身を乗り出した男――柊安住(ひいらぎあずみ)は、橙の瞳を細めて此方をじとりと見下ろした。退屈そうに頬杖をついた白い顔の横、長い一房だけを残して後ろで括った紫の髪が揺れる。
「遊んでないで進めなよ」
「遊んではないんだが」
 小さく反論すると、「お前はやることがいちいちトロいの」と益々冷ややかな目で見下される。確かに先程から進みが悪い自覚はあったけれど、午前中の殆どをソファの上で潰していた男に言われる程だろうか。
 壁掛け時計の針は既に十一時を回っている。朝食の席から四時間程、漸く頭まで起きてきたらしい柊は、後ろ手に持っていた古雑誌を閉じると一つ大きな欠伸をした。
「そもそも、何で床で書いてるわけ? 自分の部屋に机があるでしょ」
「机、……は、落ち着かなくて、」
 柊の言う通り、数歩先にある自室には確かに支給品の机と椅子が備え付けられている、のだが。改めてそこで真白い書類と向き合おうとしてもどうにも集中し切れなくて、未だにきちんと使えたことはない。これまで勉強というものと縁遠い生活を送ってきた弊害なのか、机に向かう、という状況自体に緊張感を覚えているのかもしれなかった。
「床の方が進む。……お前だって、よく此処で書いてただろう?」
 小さく首を傾げると、「俺はテレビ見ながら書きたいだけ」と呆れ顔で反論された。何かをしながら文字が書けるなんて器用な奴だ。
 ――このまま此処で報告書を書き続けたなら、俺もいつかはそんなことが出来るようになるのだろうか? 未来のことは、あまり想像がつかない。
「……ていうかそこ、字違う」
「何処だ?」

 未だ少し眠たげな男の言葉に従って、再び書類に目を落とした時。前方からカチャリ、と控え目にドアが開く音がした。

「……ああ、阪田ちゃん」
「あ、二人とも、まだこっちにいたんだね」

 先に目線を上げた柊の声に釣られて顔を上げたのと同時、にこにこと穏やかな笑顔と共に、聞き慣れた青年の声が鼓膜に届く。
「おかえり。は、……秋人」
 未だ少しぎこちなさの残る呼び方で名前を呼ぶと、男――阪田秋人(はんだあきひと)は、何処か嬉しそうな顔で「ただいま」と頷いた。

「お疲れ様。今日はもう終わりなのか?」
「ううん、十五分休憩だって」
 手元の辞書をぱたりと閉じながら尋ねると、男は笑顔で首を横に振った。柊の向かいのソファに腰を下ろした彼に合わせるように立ち上がると、幼さの残る顔立ちが楽しげな表情で此方を見上げる。
「夏生くんもお疲れさま。報告書の方はどう?」
「……あまり、」
「全然」
「そうだけど、何でお前が言うんだ」
 答えようとした傍から割り込んできた声に思わず文句を言うと、秋人は片手で口元を押さえるようにしてくすくすと笑った。
「おつかれさま。今日は手伝えなくてごめんね」
「気にするな。……お前の方が大変だろう」
 隣に座って、自分よりも背の低い青年の首に掛かったタオルを見遣る。薄茶色の前髪がぺたりと張り付いた額には、未だ乾き切らない汗が滲んでいた。

 数週間前、初夏の日。抜けるように晴れたあの日の朝に、秋人の『強化人間』としての能力は無事に――と言っていいのかわからないが――覚醒した。のだけれど。
「本当は、こっちも『あっち』も、すぐ手伝えるようになりたかったんだけど……」
 貧血状態になりつつもどうにか帰還して、二人して医務室で一日中眠りこけた日の後日。行われた検査で強化人間としての能力の発現が証明されると同時に、『基礎体力がない』という身も蓋もない判定を受けてしまった阪田は、本格的に討伐任務に携わる前の下準備として、ここ数日集中的に身体能力を鍛える特訓を積まされていた。
 此処に来るまではずっと、異形とも訓練とも縁遠い暮らしをしてきたのだ。すぐに実戦という訳にはいかないのも無理もない話だとは思うが、秋人本人にとっては重大なことであったらしい。訓練開始から暫く経った今となっても、時折何処となく悔しげな表情を見せている。
「……恥ずかしいっていうか情けないっていうか。も、もうちょっと学校にいたときに運動しておけばよかった……!」
「今言っても後の祭りでしょ」
「そうだぞ、気にするな」
「……うう、ありがとう……」
 言葉ではそう口にしつつも、今尚無念な思いは抜けないらしい。手袋を外した男の右手は羞恥心からか火照った顔を覆っている。見かけよりずっと芯の強い奴だから、こういうときの悔しさも人一倍なのだろう。

「……喉、乾いてないか? 麦茶でいいか」
「え、あ、自分でやるよ!?」
「いい。座っててくれ」
 慌てたようにぶんぶんと首を振る男を片手で制すると、秋人は一瞬ぱちぱちと不思議そうに瞬きをして。それからふっと、深く息を吐くようにして表情を緩めた。
「……じゃあ、その。お願いしても、いいかな」
「ああ」
 此方を見上げた緑色の目に向かってこくりと頷くと、男は何処かくすぐったそうな表情で微笑んだ。
「ありがとう、夏生くん」
 あの夜以来、秋人は眼鏡を掛けなくなった。遮るものの無くなった瞳に宿る確かな光を目にして、知らず知らずの内に口元が緩む。

「……」
 このまま茶を汲みに向かおうかとも思ったが、物はついでだ。一応この場に居合わせたもう一人にも声を掛けておくことにした。
「……お前も要るか?」
「いい」
「そうか」
 にべもなく断られて、大人しく奥の台所へと引き下がる。

 冷蔵庫で冷やしていた麦茶を自分と秋人の分のマグカップに注ぐ間、居間に残した二人のぽつぽつと話す声が漏れ聞こえてきた。
「……浮かれるのはいいけど、はしゃぎすぎてうっかり死なないようにね」
「ぼ、僕そんなにはしゃいで見える……?」
 これは、後から知ったことだが。
 あの夜、どちらに掛けても一向に繋がらない通信機に業を煮やした柊は、自分 に割り当てられた地区の討伐を終えた直後、俺と阪田が居るはずの地区まで足を 延ばしていたらしい。結局当てもなく地区内を歩き回ることになったらしい男が 俺達の帰還の知らせを受けて機関に戻ってきたのは、二人が施設に戻ってから悠に一時間は後のことだった。
「やっても打撲までにしてよね、骨折ると回復まで長いから」
「肝に銘じておきます……」
 蒸し返しても嫌がられるだけだろうから、何も言うつもりはない。
 ――相変わらずよく分からないけれど、たぶん、まるきり悪い奴ではないのだ。その後一週間は口を聞いてくれなかった男の横顔をちらりと盗み見ながら、夏生は二人分の麦茶をテーブルに置いた。

「ありがとう」
 微笑んだ秋人が麦茶に口をつけようとした丁度その時、入口の方でバン、と風船が破裂するような音が聞こえた。

「阪田君!」
「!」

 同時に響き渡った耳を劈く程に高らかな大声に、その場に居た全員の身体が驚きで小さく跳ねる。
 薄金色の髪を躍らせるようにして飛び込んできた青年――春日江司(かすがえつかさ)は、衝撃でびくりと震えた三人の肩も、開けた勢いのあまり壁に激突して跳ね返った扉のことも、まるで目に入っていないかのような爽やかな笑顔で此方に歩み寄ってきた。
「! あれ、春日江くっ……っ」
 唐突に呼びかけられて驚いたのだろう。飲みかけの麦茶が気管に入ったのか、顔色を蒼くした秋人がげほごほと激しく噎せる。見かねた夏生がゆっくりと彼の背中を擦っていると、つかつかと歩いてきた春日江は何を気にする様子もなくにこやかな表情で告げた。
「迎えに来たよ。あと三十秒で休憩時間が終わるから」
「っ……わっ! ごめん、もうそんな時間!?」
 漸く咳を止めた秋人は、けれど壁に掛けられた時計を見上げると再び顔面蒼白になった。元々十五分休憩だと話していたから訓練再開の時刻は把握していたのだろうが、此処でのんびりと話している規定の時間が近付いていたらしい。
 慌てた顔で麦茶を一気に飲み干してはまた噎せた男の背中を、「無茶するな」と宥めながらもう一度擦る。別に残したっていいのに、律儀な奴だ。――それにしても、
「……お前が、先生役なんだな?」
 暫くは彼が訓練の講師役をやるらしいという話は秋人から聞いていたものの、こうして実際に目の当たりするとどうにも不思議な気分になる。
 春日江司――夏生にとっても一つの道標で、憧れでもある、一人目にして最強の強化人間。異形を倒す技術において、彼がこの場に居る誰よりも優れていることは確かに事実なのだが。その技を人に教えることにも特化しているとはあまり思えなかった。
「そうだよ。私が先生」
 違和感に首を傾げていると、春日江は青い瞳を見開いてうんうんと頷く。
「ドクターに頼まれたからね。弱者を導くのはヒーローの大切な役目でもあるし、異存はないよ!」
「弱者」
「うん。三、二、一、ゼロ」
 時計の針を見上げつつ唐突なカウントダウンを始めた春日江は、それを数え終えると共に自然な手付きで秋人のシャツの襟首をがしりと掴んだ。え、と声を上げる間もなく、子猫のように軽く持ち上げられた身体はそのまま流れるような動作で出口の方向へと引き摺られていく。

「……」
「それじゃ行こうか、阪田君。次は実戦編だね」
「ま、まって待って春日江くん締まってる締まってる……!」
 「せめて片付けしてから!」と食い下がる男に『無理するな』と視線で合図して、滑らかに遠退いていく二人の姿を見送る。明らかに背後の秋人を視界に入れていない春日江の手付きからは不安しか感じないけれど、あの人が指図したことならば何か考えが――もしくは企みが――あってのことなのかもしれない。阪田の身体も以前よりは丈夫なものに変わっているはずだから、まあ、余程のことがない限りは大丈夫なのだろうが。
「……がんばれよ、無理しないぐらいに」
「! うん」
 独り言のつもりで呟いた応援は、まだどうにか本人に届いたようで。床をずるずると引き摺られてく男は、酸欠で青ざめた顔をぱっと輝かせて笑った。
「僕、頑張るから! あっ、無理はしないけど、無理しない程度にできる限りすぐ追い付いて一緒に行けるように……! だからえっとその、――また後でね、夏生くん!」
「ああ」
「……」
 嵐のように去って行った男達を見送ると、部屋には再び先程と同じ静寂が残された。

「……ところでこれ、何処が間違ってるんだ?」
「自分で考えたら」
「分からないから教えてくれ」

 八月。分からないなりに、分からないことに慣れていく日々は続いている。


 その陰に忍び蠢くものの影など映さないまま、今はただ、続いていた。  


   
 

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