6-2



「……終わった」

 『明日の降水確率は七〇パーセント、午前中から激しい雨になる模様です』、流れるように告げるアナウンサーの声を背中に聞き流しながら、夏生は遂に最後の行まで埋め尽くされた報告書を膝の上に置いた。

 半日以上を費やして完成した大作は筆圧の強さで少しだけ紙がよれている。新鮮な達成感とそれを上回る疲労で、思わず漏れ出る欠伸に片手で口を覆った。
 長時間に渡って紙面と向き合った身体は、慣れない姿勢を取り続けていたためか不自然に硬く凝り固まっている。思い切り全身を動かした任務の後とはまた違う倦怠感に肩をぐるぐると回していると、背後から「お疲れさま」と柔らかな声が掛かった。
「、秋人、」
「今日中に完成したんだ。すごいね」
 穏やかな微笑みを浮かべて脱衣所から顔を出した男は、此方に歩み寄ると「夕飯、先に頂いちゃってごめん」と少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。思わず顔を上げて見つめた視線の先、首に掛けた薄黄色のハンドタオルが揺れている。
「? 俺が頼んだんだ、気にするな」

 片付けは纏めてした方が効率的であるという理由で、夜間任務の無い日はこのテーブルで四人揃って夕食を取ることが多かった。元からそこまで饒舌な性質の人間達ではない。集まった所で特段話が盛り上がるということもない――それでも、最初の頃と比べれば少しは口数が増えたような気もする――のだが、一月も『機関』(ここ)で過ごした今ではすっかり日々の習慣の一つになっていた。
 今夜も夕方六時を過ぎた頃に一度声を掛けられたのだが、ここで中断してしまうと今日中に片が付かない気がして断ったのだ。しかしそれは自分が言い出したことだから、彼が謝ることなど何もない。そうはっきりと説明しても尚、秋人は何処となく困った表情で「そうなんだけどね」と苦笑した。
「随分根詰めてるみたいだったから、疲れてないかなと思って」
「……。……お前は、人のことに気を回し過ぎじゃないか」
 周囲に気を遣えるのは彼の長所だと知っているが、それも程々にしておかないと疲れてしまう。――あの朝からは、以前のように闇雲な謙遜や行き過ぎた譲歩は少なくなったように思えているし――今だって、特に表情に暗い色が見えているというわけでもないのだが。
 言外に案じていた自分の心配を察したのだろう。「ううん」と心なしか普段より力強い声で否定すると、秋人はぶんぶんと首を横に振った。
「……その、今は別に、夏生くんの心配してるようなことはないよ!」
「そうか?」
「うん。僕が気にしたくて気にしてるだけだから気にしないで」
「……そうか」
 きっぱりと言い放たれた言葉の意味はよく理解できなかったが、にっこりと笑ってみせた男の顔からは嘗てのような無理や誤魔化しの類は感じ取れなかった。
 一先ず納得した様子の此方を見て安心したのか、秋人は穏やかに一つ頷くと、ソファの背の裏側に凭れた俺の傍にしゃがみ込んだ。濡れた薄茶色の髪から滑り落ちた水滴がコンクリートの床に染みる。
「シャワーは今柊くんが入ったところだから、先にご飯温めようか?」
 共有スペースに備え付けられたシャワーは一つ。此方も普段ならばその場に居る全員で使う順番を決める所だが、此方に関しても今日は自分抜きで回して貰っていた。
「……いや、」
 ソファでテレビを眺めている春日江は早々に入浴を終えていたようだし、秋人は先程脱衣所から出てきたばかりだ。今日はジャンケンで惨敗したらしい柊の後はもう俺しか残っていない。大した仕事もしていないのに凝り固まった身体を早々に解したい気持ちも少しはあるが、今はそれより先にやらなければならないことがある。――の、だけれど。

「その前に、蕪木さんにこれを……渡そうかと、思ったんだが」
 ちらりと見上げた壁掛け時計の針は、既に午後八時を回っていた。出来ることなら締切日である今日の内に渡したいと考えていたが、こんな時間だ。彼の方は流石にもう帰ってしまっているかもしれない。独り言のようにそう呟くと、秋人は「ううん、」と軽く首を捻った。
「どうかな。いつも遅くまでお仕事されてるみたいだから、たぶん今日もまだいらっしゃるんじゃないかと思うけど……。それに、」
「?」
「ほら、ここの仕事って、殆ど二十四時間体制みたいなものでしょ? 職員の方達も、殆ど住み込みみたいな形でやってるみたいなんだ」
「住み込み?」
「そう、住み込み」
 鸚鵡返しに繰り返した言葉に頷くと、秋人は両手でぎゅっとタオルの端を握り込んだまま、此方を安心させるように微笑んでみせた。
 ――まともに言葉を交わしたことのある職員が数名しか居ないせいもあって、これまでは深く考えたことがなかったが。自分達『強化人間』を管理しつつ、昼夜問わず異形の出没情報に対応する『特務機関』の職員が普通の会社員のように毎晩自宅に帰れるとは考えにくい。この地下施設の全域がどの程度の規模なのかは未だ把握しきれていないが、自分達が暮らす居住スペースの存在を考えれば、他の階層に社員寮のような設備があっても何らおかしいことではなかった。
「だから蕪木さんじゃなくても、どなたかはまだ居られると思うよ」
「……そうか」
 それならば、とソファの陰から立ち上がりかけた瞬間。背後で聞き慣れた明るく抑揚の無い声が響いた。

「その紙を渡したいの?」
「……春日江?」

 ソファの上で頬杖をついた青年は、いつの間にか青い瞳をぱちぱちと瞬きしながら興味深げに夏生達の方を覗き込んでいた。突然の声掛けに秋人の肩が一瞬驚愕で跳ねたが、この男の言動が唐突なのはそれこそいつものことだ。すぐに気を取り直したらしく「そうなんだ」と笑顔を作って頷いた。
「そう」
 感情の読めない微笑で頷き返した春日江は、すくりと立ち上がると足音も立てず唐突に床へと飛び降りた。
 視界の端で色素の薄い金髪が揺れる。テレビを見ていたのではなかったのか、先程まで天気予報を伝えていたニュースはいつの間にか交通情報に切り替わっていて、鑑賞者の関心を失った電化製品は用は済んだとばかりに主電源を落とされている。不健康なまでに色白な掌から鮮やかな軌道で空を飛んだリモコンは、無事ソファの上に着地してぱふんと場違いに間抜けな音を立てた。
 呆気に取られる自分達を他所に、春日江は自信に満ちた笑顔で此方を振り向くとこう宣言した。
「それなら、此処から呼ぶといいよ」
「……。……此処?」
 ――此処、というのは、そのまま『この部屋』のことでいいのだろうか。
 脈絡のない言葉に、思わず視線を動かして室内を見回す。相も変わらず灰色のコンクリートに覆われた壁、カーペットも敷いていない同じくコンクリート張りの床。壁を隔てて隣にあるのは自分達四人の個室だけだ。エレベーターホールへと続く扉はあるが、それも今は硬く閉ざされている。
 この居住スペースが一体地下何階に当たるのかは未だに分からないが、この環境ではどんなに大声で叫んでも流石に他の階へは聞こえないだろう。春日江の発言の意味を測りかねて首を傾げていると、隣の秋人が「あ、」と何かに気が付いたように声を上げた。
「そっか、スピーカーから外の人と話せるんだったね」
「……、ああ」
 「そう」と頷く春日江が指差した先を見つめて、夏生は漸く納得の相槌を洩らした。

 天井の隅に取り付けられたスピーカー。毎朝のようにこの機械を通して異形出没の警報や出動の指示を受けていた筈なのに、二人に指摘されるまですっかりその存在を忘れていた。

 ――会話が出来るのだから、向こうからの連絡を待つばかりではなく、此方から呼びかけることも可能なはずだ。けれど。
「此処から連絡して、部屋まで取りに来てもらえばいい。以前電子レンジが壊れた時もそうだった」
「あ、いや……」
 仮に誰かに繋がったとしても、こんなことのために態々来てもらうのは申し訳なさすぎる。断ろうと口を開いたが、言い終えるよりも先に春日江はスピーカーの前まで歩み出ていた。

「誰かいる?」

 止める間もなく放たれた明朗な声が室内に響いて、伸ばした腕は行き場を失って宙に浮いた。

 機械越しの空間から伝わる音を聞き洩らすことのないように、三人は自然と呼吸を止めるように息を呑んで、部屋の中はしんと静まり返る。
「……」

 壁掛け時計の針だけがカチコチと正確に時を刻んできっかり十秒後、スピーカーの向こうから未だ応答はない。

「誰もいないみたいだね」
 何の返答も寄越さないスピーカーを前にしても、春日江は特に落ち込むこともなくただ明るい声を上げる。彼の親切心を徒労にしてしまったことへの落胆と、顔も知らない職員に手間を掛けずに済んだことへの安心感でふっと溜息が洩れた。
「……ありがとう。……けど、平気だ」
 「自分で行く」と断りを入れて、座り込んでいた床から身体を起こす。元から自分の足で届けるつもりであったし、見知らぬ人間の手を煩わせるより其方の方が気が楽だ。
「この時間だと、蕪木さん達は何処にいるのか分かるか?」
「ええっと……ごめんね。僕も詳しくは知らないや。柊くんなら分かるかもしれないけど……」

 緩く首を傾げた秋人がそのまま隣へ視線を向けると、春日江は三秒程の沈黙の後、「私にも分からないけれど、」とあっけらかんとした笑顔で口を開いた。

「一階ずつ回れば、いつか誰かには会えるよ」
「…………」


 

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