6-3



 金属製の扉を開けて歩み出たエレベーターホールは、風通しの悪さのせいか人気が無いわりにやけに生暖かく感じる。

 握り締めた先から生ぬるく体温が移ったドアノブから指を離して、溶けるような暗闇の中へ歩を進めた。
 窓のない空間には温く籠った空気が充満していて、正面の壁に取り付けられた非常灯の明かりだけが弱く辺りを照らしている。緑色に染まる視界の中、踏み締めた床から上る埃の匂いが少しだけ鼻についた。  そういえば、夜に此処を一人で通るのは初めてかもしれない。任務で出入りするときは大抵他の誰かと一緒だし、自分が単独で検査に呼び出されるのは大概が昼間の内だった。
 ――照明を点けないと、こんなに暗いものだったのか。自然光が入らない構造であるから当然といえば当然なのだが、暗く温い空間は閉じた箱の中のようで何処か現実味が無い。

 仄かな光源に誘われるように進んで、かちりと昇降ボタンを押した時、夏生はふと背後に見知った人間の気配を感じた。
「……、……お前も来るのか?」
「そうだよ」
 問い掛けると、暗がりから明朗で簡潔な答えが返ってきた。
 再び扉を閉めた男――裸足にスリッパを突っかけた春日江は、ペタペタと小気味良い足音を立てながらエレベーターの前で立ち止まる夏生に追い付いてきた。
「君が迷わないか阪田君が心配していたから。私が案内してあげようと思って」
「それは有難いが、……」
 その格好のままでいいのか。喉元まで出かけた言葉を口に出すか迷って、夏生は隣りに立つ男の服装を見下ろした。
 丸く白い襟は付いているものの、会社員が着るシャツのようにパッキリと息が詰まりそうな型はなく、上下が薄い水色で統一された洋服――パジャマと呼べばいいのだろうか――実家では誰も着ていなかったので正しい名称は分からないが、春日江はこの動きやすそうな服をよく寝間着にしている。薄緑の光に照らされる金髪はまだ生乾きだったようで、丸い頭には自室から適当に引っ掴んできたのであろうタオルが被さっていた。
 室内とはいえ、仮にも研究機関の中をいかにも風呂上がりのような恰好で歩き回ってもいいものだろうか。部屋着のシャツに上着を羽織っただけの自分の服装も大してまともではないが、あまりにもリラックスした様子に心配が頭を擡げた。
「……怒られないのか、その服で」
 不慣れな自分に着いてきてくれようという親切は有難いが、そのせいで春日江に迷惑を掛けるのは申し訳ない。そう不安を口にすると、春日江はあっけらかんとした表情で首を傾げた。
「? 誰に?」
「……? それは、此処の……職員の。蕪木さんとか、他の人に」
 軽く説明を付け加えても尚心底ぴんと来ていない様子で首を傾ける男に、夏生の頭に一瞬自分の考えが一般的なものであったかという不安が過った。――自宅では濡れた服をそのまま着ていたり、部屋着にしている服で外に出掛けると後で母親に切々と諭されたものだけれど、他の家ではそんなことはないのだろうか。そんな話を人としたことはないからよく分からない。
 春日江は二秒程ぱちぱちと瞬きをしながら考え込んだ後、「いいや」とやはり首を横に振った。
「これを着ていても私の可動域は損なわれないから、否定される意図がわからないけれど、蕪木助手達に怒られたことはないよ」
 いつも通り濃淡の少ない声で語る春日江の言葉で、漸く納得がいった。多くの人間が生活しているという点では同じであるものの、此処――特務機関は普通の民家や寮とは事情が異なる。外の世界の礼儀や常識よりは、単純な実利の方が優先されているのかもしれない。
 大人しく「そうか」と頷くと、春日江は「うん、」と爽やかな笑顔で相槌を打つ。
「任務以外では、誰も私に話しかけてこないから!」
「…………」
 チン、と軽い音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。


「司令室なら人が居るのは確実なのだけれど、少し遠いね」

 操作盤を見つめながら明るく呟いた春日江は、「資料室へ行こう」と一人ごちてパチリとボタンを押した。切れかけた白熱灯に照らされるエレベーターの中、いつもの黒手袋が無い男の指は不健康なまでに青白く見える。
「任せる」
 相変わらず迅速な判断に頷いて、微かに音を立てて上昇するかごの壁に凭れた。任せきりになってしまうのは申し訳ないが、自分は日頃呼び出されることの多い研究室や、境界外に繋がる地下道以外の部屋の位置を殆ど把握していない。此処は春日江の案内に頼るべきだろう。
 目的地はそれ程離れた階ではなかったようだ。数十秒後、又もや軽快な音と共に扉が開く。
「この奥が資料室だよ」
 白く長い指に指し示された方向を見て、夏生は思わず呆然と呟いた。

「……。……これは、暗すぎないか?」

 エレベーターを降りた先。二人が足を踏み入れた階層は、急な停電でも起きたのではないかと考えてしまう程不自然に暗かった。唯一エレベーター付近だけは非常灯の明かりでぼんやりと明るいが、それ以外の照明は殆どが切られているように見える。
 とても二十四時間体制で人が働いている施設とは思えない。――以前、昼間に研究室のある階を訪れたときはこのような様子ではなかった気がするのだが。『強化人間』である自分の視力ならば支障はないが、普通の人間が歩くのにこの暗さは不便ではないだろうか。
 素朴な疑問を口にすると、春日江は、「私は感じたことがないけれど、」と軽く前置きして口を開いた。
「人間は、明度の変わらない空間に居ると体内時計が狂うそうだ」
「狂う?」
「夜が昼に、昼が夜になる」
 歌うような響きで放たれた言葉の意味を咀嚼するのに少し時間がかかった。
「この施設は地下にあるからね。いつ日が昇るのか、いつ日が沈むのか、外に出てみなければ分からない」
 仄暗い廊下を並んで歩きながら、淡々と抑揚のない明るさで響く声に頷く。

 『特務機関』――そう通称される『名前の無い研究機関』が使用するこの施設は、新東京の地下深くに位置している。
 コンクリート張りの壁に囲まれた、日の光の差さない空間。今でこそ少しはこの環境にも慣れてきたが、自分も此処に来たばかりの頃は窓の無い部屋の窮屈さと変化の無い景色に随分と戸惑ったものだ。至る所に設置された壁掛け時計で時間は確認できるものの、そうでなければ昼夜どころか日付の感覚まで失ってしまいそうな場所だ。
 「だから照明を調整しているんだ」と話す春日江の言葉通り、廊下の白熱灯はよく見れば規則的に――六本に一本程は点灯していた。常人の視力では恐らく目を凝らしても廊下の奥までは見通すことが出来ないが、真っ直ぐに歩ける程度の明度は保たれているのだろう。
 慣れた様子でパタパタと足を進める男の横顔を眺めながら、夏生はふと思い付いて口を開いた。
「……お前は大丈夫なのか?」
 初めて二人で話したとき、春日江は十年前から特務機関で暮らしていると言っていた。境界外を庭の如く闊歩していたのと同じ、此処――特務機関は、此奴にとっては住み慣れた実家のようなものなのだろう。
 同じく此処に長く居るらしい柊も同様だが、彼らの不自然な程色白な肌は恐らく長期間の地下生活によるものだ。強化人間としての任務で外出することは多々あるが、日常的に日光を浴びない暮らしを数年も続ければ、いくら彼らでも少しは身体に影響があるものではないだろうか。
「私はヒーローだからね。昼は昼、夜は夜さ」
 ふと頭の中に浮かんだ心配事は、しかしそうはっきりと言い放つ男の言葉ですぐさま拭い取られた。少なからず彼の力を信じている自分だからそう感じるのかもしれないが、証拠もないのに『此奴がそう言うならそうなのだろう』と納得させる不思議な強さが春日江にはある。
 彼の発言に目に見えた根拠はないけれど、迷いなく言い切る彼自身の存在が根拠そのものなのだ。
「……そうか」
 こくりと大人しく頷いた夏生を他所、春日江は「ああ、」と不意に何かに気が付いたような声を上げて足を止めた。つられて立ち止まると、タオルを被せたままの形良い頭がくるりと此方を振り向く。
「この扉が資料室だよ」
 取り留めのない会話を続ける内に、掴み所のない男の案内はいつの間にか目的地まで辿り着いていたようだった。
 人気の無い廊下にぽつりと佇む無機質な金属製の扉には、確かに『資料室』と掛かれた手書きのパネルが嵌まっている。軽く耳を澄ましても扉の向こう側で話し声がする様子はないが、部屋の中では誰か働いているのだろうか。
「誰か居そうか?」
   当初の目的を思い出して首を傾げると、春日江は「うん」と晴れやかな笑顔で頷いた。
「明かりがついてる」
 右手で足元を示す春日江の動作に従って視線を下に向けると、男の言葉通り、扉と床の間の僅かな隙間からかすかな光がこぼれ出ている。――気が付かなかった。単なる『ヒーロー的直感』なのか、無意識の経験則から来るものなのかは分からないが、この男の言うことはよく当たる。
 想定よりずっと手短に済んだ探検が終わる気配を察して、夏生はクリアファイルに挟んだ報告書にちらりと目線を遣った。――数十分は歩き回る覚悟をしていたのだが、春日江のお陰で早くも目的が達成できてしまった。
「……ありがとう。おかげで早く済」
 感嘆と共に礼を述べようと口を開いた瞬間、

「それじゃ、開けるね」

 春日江はすっと無駄のない動きでで目前のドアノブに手を掛けた。
「! 待て、こ、……」
 ――こういう時は、ノックをした方がいいんじゃないか。

 そう咄嗟に続けようとした言葉は、止める間もなくカチャリと回るドアノブの音に掻き消された。

 扉が開いた瞬間、まず鼻腔に飛び込んできたのは風圧で掻き混ぜられた古いインクの香りで、それからふわりと空気中にばらけたアルコールの匂いだ。
 見慣れたコンクリートの壁面。二十畳程の部屋に所狭しと並ぶ本棚はどれも天井に届きそうな程高く、成人男性の平均より少し高い夏生の背丈をも悠に超えている。スチール製のそれには几帳面にラベルの貼られたファイルとやたらに分厚い図書類が収納されていて、太い背に印字された豆粒のような文字は、視認こそできるものの何を意味するのかまではよく分からなかった。
「……」
 ――図書室を思わせる部屋の内装は物珍しかったけれど、まず初めに夏生の視線を奪ったのはその背景ではなかった。

 ずらりと立ち並ぶ書棚の奥、出入り口に背を向けるようにして設置された机の前に、一人の男が腰掛けているのが見える。

 蛍光灯の光を浴びて薄く光る黄緑色の髪、細身の後ろ姿に羽織られた白衣は、相変わらず必要以上に丈が長く垂れて床に着きかけている。パイプ椅子に緩く腰かけた男の体つきは、正面から見るよりもより不健康に細長く見えた。
 声を掛けようと唇を開いた瞬間、春日江の方が先に軽やかな声を上げていた。

「ドクター」
 明るく抑揚のない声が空気を震わせて、作り物のように体温の無い顔が此方を振り返る。

「これはまた、――お似合いの組み合わせだな」

 ――どういう意味だ。薄く笑みを浮かべた男の表情からは、部屋着のままの自分とパジャマ姿の春日江、どちらの格好を揶揄されたのか判断がつかなかった。

 パイプ椅子の背に片肘をついた男は、「それで?」と此方の応答を待つように金色の目を細めた。
「……俺は、ほ」
「『報告書を提出しに来たが、蕪木さんは居ないのか』? アイニク彼は今夜非番だが、もう一人の助手に預ければいい。此処に置いていきたまえ」
「…………」
 初めから分かっていたなら訊かなくてもいいだろう。――と、この返答すらも目の前の男の予測通りなのだろうと想像して、夏生は呆れと僅かな懐かしさに小さく溜息を吐いた。

「……あんたは、どうしてこの部屋に?」
 軽やかに響く声、微妙に外れた単語の発音。此方の考えを全て見透かしているかのように感情の読めない視線。背の高さに対して圧倒的に肉が足りていない体躯に、何処から見てもこの国の生まれではないのだろうと推測させる顔立ち。特務機関の研究者であり、自分を此処に引き入れた張本人――そして自分の『命の恩人』である男は、此方を小馬鹿にするかのように軽やかに笑った。
「ボクは本よりこの組織に属するモノだ。何処に居ようとキミに訝しがられるようなことはないが、ヒトと待ち合わせをしていてね」
 相変わらず回りくどい言い回しで答えた男は、時刻を確認するように背後の壁時計にちらりと視線を遣った。
 恐らく仕事の打ち合わせか何かだろう。自分達が居ては邪魔になるだろうし、此処は早めに立ち去った方がいいだろうか。そう考えかけた所で、男がふと夏生の隣に視線を移した。
「ところでキミは? 普段ならもう就寝準備の時間だと思ったが」
 突如として観察するような目を向けられた男――春日江は、特に臆する様子もなく「その予定だったのだけれど、」とあっけらかんと答えた。
「私は鎧戸君を案内しにきたんだ。迷子を導くのはヒーローの役目だからね」
「キミが自分の予定を変更するのは珍しいな。明日はヤリでも降るのか?」
「明日は午前中から豪雨の予定だよ」
「成程、天気予報もたまには気の利いた予想をする」
「……」
 ――知り合いだったのか。淀みのない川のように滑らかに続く内容の無い会話に一瞬面食らって、すぐにそれもそのはずではないかと思い直す。
 この人――自らを『ドクター』という識別記号で呼ばせる白衣の男は、恐らくこの機関、そして強化人間計画においてそれなりに重要な立ち位置にいる研究者だ。春日江は十年前からこの施設で暮らしている一人目の強化人間であるのだし、二人が知り合いなのは別に不自然なことではない。
「司令室へ行こうかとも考えたのだけれど、此処よりも距離があるから」
「ケンメイな判断だな! 今日は気が立ってるらしい、その服で行けば三十分は時間をムダにする」
「私はいつでも最善を選んでいるからね!」
 自分が驚いたのは、春日江にしてもあの人にしても、この二人相手にここまでスムーズな――と言っていいのかはわからないが、彼らの独特な言動に戸惑うことなく会話が成立しているところを見たのが初めてだったからだ。
 常に人を食ったような物言いをするあの人に関しては言うまでもないが――『新東京のヒーロー』として、彼なりに様々な基準を持って行動しているらしい春日江の言動は、彼の思考回路を覗き見ることができない他者からは少々突飛に映ることが多い。
 人となりを知った今でこそ尊敬しているが、出会ったばかりの頃は夏生も彼の言葉やペースを理解しがたく思っていた。だからこそ蕪木達職員も彼に『話し掛けてこない』のかもしれないし、そもそもがあまり二人で言葉を交わしている場面を見かけない柊についてはよくわからないが、秋人は今でも少し春日江に対して気遅れしているのではないか、と思う時もある。
 その後も暫く自分にはよく内容が掴めない事柄を喋り続ける二人を眺めながら、夏生はじっと二人の表情を見つめてみた。
「この部屋に来るのもドクターと会うのも久しぶりだね。D地区の資料は何処? 明日の朝から調査に行くんだ」
「ボクの記憶が正しければ、キミとは三日前にもこの部屋で会った気がするが。三段目の右から二番目のファイル。ご自由に」
 ――顔立ち自体が似ているというわけではないのだが。良くも悪くも浮世離れした彼らの容姿と、相手の態度を全く意に介さないで話し続ける会話のペースは何だか何処となく似通って見える。
「……親子……、とか、では、ないよな」
「は?」
 思わず零した独り言に、二対の目が一斉に此方を向く。蛇のように鈍く輝く金色の目と、人工物のごとく翳りの無い青の瞳に同時に見つめられ、夏生は一瞬居心地悪くたじろいた。
「……いや、その、……随分似てるなと……思っただけだ。あんた達二人が」
「そう?」
 不思議そうに訊き返してきた春日江は、きょとんとした表情のまままるで心当たりがないとでも言うように首を傾げた。「血が繋がってたりはしないのか」と一応尋ねてみると、二人は揃って首を横に振る。
「私とドクターに血縁関係はないよ」
「ああ、まるきり他人だ」
「……」
 両者共ににべも無く言い切られ、夏生はその即答に少し面食らいつつも「そうか」と頷いた。
 よく考えれば当然だ。マイペースで人の話を聞かない態度こそ似ているが、二人は髪の色も瞳の色もまるで違う。――大体、この男の容姿はどう大目に見積もっても二十代後半程度にしか見えない。春日江は自分と同じ十七歳であったはずだし、いくら何でも年齢の計算が合わない。有り得たとしても精々兄弟がいいところだ。

 ――それがどうして、『親子』なんて発想になったのか。自分でもよくわからないが、何故だか少し居心地が悪くなって、夏生は持っていたクリアファイルを押し付けるようにして男に差し出した。

「……じゃあ、頼む」
「仕方ない」
 二つ返事で受け取った男に頭を下げてから背を向けると、無邪気に微笑んだ春日江が「もう戻るの?」と首を傾げてきた。
「……俺は先に戻る。お前はもう少し居たらいい、……調べものもあるんだろう」
「そう?」
「ああ。ありがとう、連れてきてくれて」
 改めて礼を言って、静かにその場を後にしようとした時、背中に「一人で良いのか?」と揶揄うような声が飛んできた。
「……どういう意味だ」
 夜道が怖い歳の子供でもあるまいし、何処まで小馬鹿にされているのか。呆れて溜息を吐きながら振り返ると、相変わらず感情の読めない目をした男は、何処か此方を見透かすような薄い笑みで此方を見つめていた。
「バカにしているわけじゃないが、この国ではよく言うだろ。行きは良い良い」

「――『帰りは怖い』って」


 ――子供扱いされているのか?
 別れ際に吹き掛けられた脅しのような言葉を脳内で反芻しながら、夏生はひとり憮然とした表情で暗い廊下を歩いた。
 あの人は誰にでもああいう態度だから、今更大して腹が立つこともないが。深い意味はないのだろうが、この歳にもなって暗闇や怪談に怯えるような人間だと思われている可能性が少しでもあることを思うと、腹の奥に何とも言えない羞恥のような感情が湧く。
「……」
 ――今日の春日江の親切は有難かったけれど、やはり今後は人の優しさに甘えるばかりではいけない。直ぐには難しいが、せめてこの施設の中ぐらいは一人で行動できるようにしなければ。
 秋人のように地理を覚えることに長けているわけではないが、自分も取り立てて酷い方向音痴というわけではない。普通の人間の平均程度に勘も働くし、一度行った場所の道順なら暫くの間は覚えていられる。一人で良いのかなどと揶揄されずとも、此処から共有スペースに戻る程度のことは充分可能だった。

 そろそろ中腹程度までは歩いただろうか。頭の片隅でそんなことを考えながら、長い通路を黙々と進んでいたとき、ふと奥の方から此方に歩いて来る人影が見えた。

 研究員だろうか。廊下の先も見えない暗がりの中で、背後の非常灯の光を帯びてうっすらと薄緑色に光る白衣が浮いて見える。
 一定の速度で此方に近付いてくる人影を認識して、夏生は静かに廊下の真ん中を避けようと左側に寄った。此方からは人影が見えているが、あちらの視力では夏生の存在を認識できているか分からない。突然挨拶して驚かせてしまっては申し訳ないし、ここはさりげなく進路を譲ってすれ違うべきだろう。

 白く長い裾がゆらりと翻って、かつかつと床を打つ足音は段々と大きくなる。

 人影と夏生の距離は三メートルにも満たない。一歩、二歩、三歩。そっと視線を前に向けると、人影は未だ廊下の中央を歩いている。通路は二人の成人男性が並んで歩いても余裕がある程の幅だ。――これならぶつからなくて済む。

 そう安堵して身体を壁と人影の間に滑り込ませた瞬間、夏生の肩は何か柔らかい物体に衝突した。

 パタン、と。何かが床に落ちた呆気ない音がして、視界の端で何か白い紙のようなものが舞い踊った。
 一瞬肩に触れた体温は呆気なく離れて、あ、と声を上げる間もなく、小柄な人間の身体が目の前でよろける。そのままべしゃりと膝をつくようにして床に倒れ込んだ人影を視認して、夏生は咄嗟に傍にしゃがみ込んだ。
「! 悪い……」

 ――避けたつもりだったのに、最後の注意が足りなかった。「大丈夫か」と床に両手を付いた身体を助け起こしたところで、両手でそっと掴んだ肩の肉付きが随分と華奢であることに気が付く。女性だ、今更ながらそう認識して、存在に気が付いていながら転ばせてしまったことへの罪悪感は益々大きくなった。
「何処も痛くないか?」
「いえ、大丈夫です」
 女性が持っていたものだろう。コンクリートの床にはクリップ留めされた書類が辺り一面に散らばってしまっていて、夏生は慌ててそれら全てを掻き集めるようにして拾った。全ての順番がばらばらになってしまったわけではないことに安堵しつつ、ゆっくりと立ち上がった女性に向かって頭を下げる。
「……本当に、すまなかった」
「いえ」
 もう一度謝罪の言葉を吐きながら一束に纏めた書類を手渡すと、女性は俯いたまま、両手で抱えるようにしてそれを受け取った。先程から視線は合わないけれど、言葉から察するに腹を立ててはいないのだろうか。下を向いたまま話す彼女の表情は夏生の背丈からは窺い知れず、湖畔のように静かな声色から口から吐く言葉以上の感情は汲み取れなかった。

 ――反対方向から歩いてきたということは、彼女はこの先の部屋に用があるのだろう。先程返した書類の束を自分が運ぶことを申し出ようかとも思ったが、彼女はそれより先にするりと夏生の横を抜けて元の方向へと歩き出そうとしていた。予想外に早い動作に驚いて、何か言葉を掛けようと口を開いた瞬間。

「ありがとうございます」
 耳元で、囁くような声がした。思ったより近い位置で聞こえた声に何処か呆然とした心地で立ち尽くす自分を置いて、足音は次第に遠ざかっていく。視界の端をちらちらと舞っていた白い裾が消えて、背後にカツカツと遠ざかるハイヒールの音が響く。

「――ご親切に」

 気付けば廊下には誰の影もなく、やけに静かな女の声だけが耳に残っていた。
 

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