6-5



「これ、……って……」

 ぱちぱちと瞼を閉じて開く。豆鉄砲を食らった鳩のように間抜けな瞬きを何度か繰り返しても、差し出された封筒が目の前から消えることはなかった。

「お姉さん……、えっと、光生さんだったか? 彼女から預かったんだ」
 「これだけは渡してほしいと言われて」、そう語る彼から恐る恐る『手紙』を受け取ると、漸く肩の荷が下りた気がしたのだろう。蕪木さんは先程よりも随分と緊張感のない笑みを浮かべた。
 染み一つない封筒のさらりとした感触が指の腹に伝わる。まるで重みを感じないそれを見つめていると何故だか気の遠くなるような感じがして、夏生は思わず僅かに皺が寄ったその開け口から目を逸らしそうになった。
「……?」
 どうかしたのかとでも問いたげな視線を肌で感じて、夏生は「いえ」と慌てて頭を振った。――やはり昨日からどうにも頭がぼうっとしているようだ。気を取り直して、手渡された封筒を検分してみる。白茶けた蛍光灯の光にそっと透かしてみると、封筒の中には確かに何か――便箋のようなものが入っているようだった。
「……」
 蕪木さんの上着のポケットに入っていたからだろうか。薄く華奢な封筒からは、微かに薬品のような匂いがする。
「でも、これ……、その……いい、んですか?」
 此処に来た当時に聞かされた説明では、『特務機関』や『強化人間』の存在は、中央政府の中でも一部にしか明かされていない秘密だという話だった。政府の中ですらそんな状態なのだから、当然家族にも自分の居場所や――居なくなった本当の事情は説明できていない。
 ――表向きは入院していることになっているとはいえ、こんな風に手紙など貰ってしまってもいいのだろうか。姉の頼みだからと言ってくれているが、それで何か蕪木さんに迷惑が掛かることになっては申し訳ない。封筒を手にしたまま窺うように問い掛けると、男は鷹揚な表情で笑った。
「君から返事を送る、というのは難しいが。一方通行で渡すぐらいなら」
「一方通行」
「ああ。お姉さんにもその点は納得して貰っている」
 男性らしく薄い唇が柔く孤を描く。「心配ない」と語る男の言葉を聞いて、夏生は手紙を握り締めた右手を漸く身体の脇に下ろした。此方が納得したことに気が付いたのか、蕪木は何処となく満足げな様子で頷いた。
「阪田君の場合は事前にご家族にも説明できたが、君のときは成り行き上……その、事後報告になってしまったから。そのくらいの配慮はあってしかるべきだ」
「……」
 ――確かに、境界外で死にかけた末に強化人間になった自分の身元が機関に伝わったのは恐らく此処に来た後のことで、家族への接触も後手に回ったのだろうということは想像できたが。
「……ありがとう、ございます」
 それを今の今まで気にしてくれていたのだろうか。柊とは相性が悪いようだけれど、やはりこの人自体はそれほど悪い人ではないような気がする。
 僅かに感動を含んだ夏生の視線に気が付いたわけではないだろうが、蕪木は暫しにこにこと機嫌の良さそうな笑みを浮かべて、けれど「ただ、」と少しだけ躊躇うように言葉を切った。
「? はい、」
「――このことは、出来る限りここだけ。俺と君の間だけの秘密にしてほしい」

 何処となく後ろめたそうな色を帯びた男性の瞳を見つめて、夏生は次に口に発するべき言葉に迷った。
「……それは、……」
 ここだけの秘密。ということは、やはりこれはあまり表沙汰にすべきではないことなのだろうか。出方を窺うような視線を向けると、男は気まずげにぽりぽりと頬を掻いた。
「規定のこともあるが、それより」
 少しだけ躊躇うような沈黙の後、蕪木は最大限言葉を選んだのであろう表情で続けた。
「……ここに居る人間達は、君のようにご家族との繋がりが強い人間ばかりじゃない。だからその、あまりこういうことを大っぴらにするのは……その、……わかるだろう?」
 極端に婉曲な表現で示されたのが秋人の一件なのか、それとも他の二人の家のことを言っているのかは定かでなかったが、彼が何を言おうとしているのかは夏生の頭でもおおよそ理解できた。
 ――つまり蕪木さんは、業務上は問題ないけれど、秋人達が嫌な思いをする可能性を考えて手紙のことは秘密にした方が良いと言っているのだ。
「一緒に生活していても、当然言いにくいことはあるだろうし……トラブルの種は少ない方がいい」
「……」
 そう、なのだろうか? 夏生は思わずちらりと扉に目線を移して、奥に居るであろう三人の顔を順に思い浮かべた。
 春日江と柊、彼らから家族の話を聞いたことはない。けれど、あの二人がこういったことをそこまで深く気にする性質だろうか? 秋人、秋人は――少なくとも秋人に関して言えば、彼は自分が手紙のことを言ったからといって何か嫌な思いをするようなことにはならないのではないかと思った。し、思ったとして、今の彼ならそれを自分には隠さずいてくれるのではないか、とも思う。
 が、それらは全て自分が頭の中で作り出した想像であって、現実の彼らにそのまま押し付けていいことではないかもしれない。というのもまた確かなことであるのだった。
「……わかり、ました」

 ――秋人はともかく、柊や春日江とは蕪木さんの方が付き合いも長いのだし。それに、任務にも関係ない個人的な手紙の話をあえてしなかったところで、彼らに何か不利益が齎されることはきっとないだろう。考えた末、夏生が小さく頷くと、蕪木さんは安堵したように穏やかな笑みを浮かべた。

「ありがとう、鎧戸くんは優しいな」

 思わず首を横に振った仕草が、腕時計を一瞥するなり慌てて踵を返した彼に見えていたかは定かではない。



「おかえり!」
 扉を開けるなりぱっと花が咲くような笑顔に出迎えられ、夏生は一瞬呼吸が喉に詰まるような感覚に襲われた。
「……ただいま」
 ひりりと乾く口内から出来る限り自然を装った相槌を絞り出して、ポケットの底に沈ませた『手紙』を奥に押し込める。

 中央に置かれた卓には四人分のトレイが並べられていて、革張りのソファに腰掛けた三人は既に昼食の準備を終えているようだった。慌てて手を濯いで席に着くと、案の定先に帰ってきていたらしい。向かいの席に腰掛けた春日江が、もぐもぐとパンを齧りながらゆったりと問い掛けてくる。
「遅かったね。柊とは別働隊だった?」
 何と答えたものか迷っていると、対角線上の席で豆の缶詰を摘んでいた柊が静かに口を挟んだ。
「さっき言ったでしょ、途中で蕪木さんと会って話してたから置いてきたって」
「、」
 続く言葉に思わず柊の顔を見つめたが、「あの人と喋って何が楽しいか分からないけど」と無意味な毒を吐く横顔は此方を一瞥もしない。「そういえばそんなことを言っていたね」と相槌を打つ春日江や秋人が何も聞いてこないところを見ると、どうやら俺が蕪木さんから呼び止められたということは伏せて上手く言っておいてくれたらしい。
 用件の内容まで察しているわけではないだろうが、柊なりに一応気を回してくれたということなのだろうか。後で何か礼を言った方がいいのかなどと呑気に考えていると、隣の席の秋人から「そういえば、」と気遣わしげな声が飛んだ。
「――柊くんから聞いたんだけど。夏生くん、今日あんまり体調良くないの?」
「? そうなの?」
「……、……柊……」
 どうしてそのことは言うんだと少し恨みがましい目で見つめると、柊は先程と変わらず素知らぬ顔で麦茶を啜った。ざまあみろとでも言いたげな仏頂面の横で、此方をじっと見据えた春日江がきょとんと首を傾げる。
「見たところ、体温や脈拍に大きな変化は無いようだけれど」
 てらてらと光るガラス片のような春日江の瞳にじっと見つめられ、夏生は何処となく居た堪れない心地を覚えた。些細な体調不良を二人に心配されているという状況への申し訳なさに加えて、隠し事――というほど、重大なこととは思えないけれど――を抱えた状態で真正面から見返すには、彼の視線はあまりに真っ直ぐすぎた。
「……大丈夫だ。少しぼうっとしただけで、熱……とかは、無い、と思うし」
「でも、いつもよりちょっと顔色が悪く見えるし、風邪の引き始めとかかも……大丈夫? ご飯、このままで食べられる?」
「大丈夫だ」
 「ありがとう」と、此方の表情を窺うように覗き込んできた秋人にこくりと頷く。普段よりも食欲が湧かないのは確かだったが、食べられない程ではない。ともすれば作り直そうかとでも言い出しかねない顔の秋人にこれ以上の心労を掛けるのは避けたくて、手つかずのままでいた昼食のトレイに向き直る。ぱくりと噛み付くように手元のパンを齧ると、もさもさと乾いた繊維の感触が粘膜を擦った。
「ま、バカは風邪引かないって言うしね」
「……。まあ、喉も痛くないし。風邪じゃない。心配するな」
 ――『バカ』のくだりは別に言わなくてもいいんじゃないか。そう思いはしたけれど、確かに柊の言う通りだ。喉が痛くなる気配もないし、風邪の症状ではない。尚も心配そうな顔を崩さない秋人に首を横に振って、口内で突っかかるパンをスープと水で喉奥へと流し込む。大きく口に含み過ぎた食物をどうにか嚥下して、慌てて話題を切り替えるように口を開いた。
「……お前達も、今日はもう訓練はないのか?」
「あ、ううん、僕らは午後にまだこれから……だよね、春日江くん?」
 はっと思い出したように一瞬顔を顰めた秋人が、ちらりと目線を上げて春日江の表情を窺う。いつの間にか目の前の皿を空にしていた春日江は、両手を合わせながら「そうだよ」と頷いた。
「……それ、俺も見に行ってもいいか? 邪魔はしない」
 午前中も異形との接触はなく身体を動かしていなかったのに、午後もただ此処に居るだけというのは何処となく手持ち無沙汰な心地がする。――秋人と春日江がどんな訓練をしているのかも気になっていたし、見学させてもらえば丁度良い。そう考えての提案だったが、秋人は「ううん、」と眉を下げて渋い顔をした。
「嬉しいけど、今日はもう休んだ方がいいんじゃないかな? 春日江くんの動きって見てるだけで血圧が上がって目が回りそうになるし……」
「いや、それは阪田ちゃんだけだと思うけど」
「うん、それは確かに僕だけかもしれないけど!」
 「また今度、元気なときにした方がいいよ」、諭すような口調で言った秋人に根負けし、夏生は「わかった」と大人しく頷いた。此方の返事に安心したのか、丸い緑色の瞳は漸く「うん」とほっとしたような笑みを浮かべる。
「それがいいと思うよ。ゆっくりしてて」
「定期的なメンテナンスは大切だからね。それじゃ阪田くん、私達はもう行こうか」
「! ハイ今行きますごちそうさまでしたっ! あっ二人とも、食器は後で僕が洗うから水につけておいてくれると……!」
「……はいはい、いいから行けば」
 飛び跳ねるように席を立った秋人は、ばたばたと慌ただしい動作で流し台に食器を運ぶと、すぐさまするすると滑るように歩く春日江の後を追って部屋を出て行った。扉の向こうに消える二つの人影を見送って、手元に残った豆の缶詰をもぐもぐと咀嚼する。
「……」
 再び二人になったことで、蕪木さんと何を話していたか聞かれるかと思いどきりとしたが、予想に反して柊は何も言わなかった。一口大のかけらだけ残っていたパンを口に入れると、「御馳走様」と誰に言うでもなく呟いて席を立つ。
 台所に食器を戻して、そのまま自分の部屋に戻るのだろうと思ったが、柊が向かったのは先程二人が出て行った出口の扉だった。
「? お前もどこか行くのか?」
「さっきの任務の簡易報告。春日江は阪田ちゃんの方優先だから、代わりに」
「なら俺も……」
「何でわざわざお前と仲良く報告に行かなきゃなんないの」
 あからさまに呆れ声で呟いた柊は、はあと溜め息をつくとくるりと此方を振り返った。黒手袋を脱いだ長い指がびしりと夏生の自室の扉を指す。
「何をそわそわしてるのか知らないけど、バカは大人しく寝てれば」
 心なしか『バカ』の部分に力を籠めて吐き捨てると、柊はふんと顔を背けてスタスタと歩き去った。カチャリと扉の閉まる音がして、後には空になった食器と夏生だけが残される。
「……」
 一人きりの部屋では静寂がやけに際立って、何処か遠くで鳴っている換気扇の音がいやに耳についた。


 食卓を片付けて、三人の言葉通りに自室へと戻ってみる。朝から留守にしていた自室は当然ながらひんやりと暗くて、夏生は最近支給品として貰った電気スタンドのスイッチをオンに切り替えた。「机で作業することもあるだろうから」と言った蕪木の言葉を思い出して、次の報告書は此処で書こう、と取り留めもない目標を固める。
 ベッドに腰掛けて一度、夏生はふっと心の中を落ち着けるように息を吸った。意を決して上着のポケットに手を突っ込んで、薄く捩れた布の底に沈んだ封筒を取り出す。
 潰してしまわないようにと気を遣っていたつもりではあったが、再び蛍光灯の下に引き出された白い紙には少し皺が寄ってしまっていた。

「……」
 ――『光生さんだったか? 彼女から預かったんだ』

 光生。三歳年上の姉。これまで彼女から手紙を貰ったことはない。
 生まれた時からずっと一緒に暮らしていたのだから当然だ。何か伝えなければならないことがあればいつでも話ができる距離にいたし、昔から何かと頭の回らない俺とは違って、彼女は昔から人と話すのが上手だった。
 何事にも聡くて、気が利いて、よく口が回る。見た目以外は俺と似ても似つかない姉は、けれどいつでも弟の自分に優しかった。

 仲の良い姉弟だったと思う。だった、と過去形で語る自分に違和感を覚えるくらい、自分達は仲が良かった。母親が心配故に夏生をきつく叱るときも、光生はいつでも間に入って二人を気遣ってくれたし、喧嘩など小さい頃から一度もしたことがない。母のことも、彼女のことも、夏生は好きだった。好きだ。大切だ。それだけは自信を持って言い切れることだ。
「……」
 ――なのに、どうして自分はすぐにこの手紙を広げて読もうとしないのだろう。

 自分が突然居なくなって、悲しんでいるであろう彼女の言葉を聞くのが忍びない? 叱られるのが怖い? わからない。未だ封を閉じたままのその薄い紙を抱えて、夏生は仰向けにシーツの上に転がった。柔らかいベッドの上に全身を横たえると、爪先からじわじわと身体を包むように生温い倦怠感がせり上がってくる。
 少し眠ろう。瞼を閉じると、睡魔は深い海に沈み込むように身体から意識を切り離していった。


 しとしとと雨が鳴る。ぱちりと瞼を開けた視界は霞がかったように暗くて、体温でぬるくなった水が肌を滑って足先へと滴り落ちた。
「夏生」
「、」
 名前を呼ぶ高く震えた声は、いつか見た夢のそれとは違っていた。思わず後ずさりして、背後に倒れ込みそうになる身体を白い腕ががしりと掴む。ぜえぜえと荒く泣き出しそうな呼吸が間近で聞こえて、両肩に触れた指の震えが濡れた肌を揺らした。

「あなたが、」

 続く言葉は何だっただろう。動く唇は確かに何かを喋っているのに、ざあざあと降り注ぐ雨音が力無いその音を掻き消していく。
 声のない言葉に返事を返すことも出来ないまま、気が付けば雨に紛れた人影は何処かへと消えていた。


「……っ」
 はっと身体を起こすと、枕元に置いた時計の表示は二十三時四十分を指していた。
 十時間近くも眠っていたのか? あまりにも現実味のない数字に思わず瞬きを繰り返したが、ちかちかと点滅するデジタル時計の表示は何度見つめても変わりそうにない。欠伸を一つして仕方なくベッドから降りると、眠りに落ちる前に感じた倦怠感は少しはマシになっていたけれど、何処となく身体が重いような感覚はまだ消えていなかった。手の内の封筒もそのまま、幸いにも握り潰してしまうことはなくそこにある。
 ベルが鳴らなかったということは、緊急の出動はなかったのだろう。よかった、と一瞬安堵はしたけれど、それにしても半日以上も寝過ごしてしまうのは情けない。

 ――秋人達はもう寝てしまっただろうか。恐る恐る共有スペースに続くドアを開いてみると、案の定簡素なコンクリート張りの空間には誰の影も残っていなかった。
 照明が落ちた室内は真夜中のように――実際、時間帯的には夜中なのだけれど――暗いが、強化人間の目を持ってすればこれくらいの暗闇でも躓くことはない。扉を開いたまま、自室の机の上で点灯させたままの電気スタンドの明かりだけを光源にして、夏生は共有スペースへと足を踏み入れた。
「……」
 水でも飲もう。深呼吸して台所に向かうと、流し台の上に何やら二つ折りにされた紙が置かれているのに気が付いた。
「?」
 手に取って広げてみると、それは丁寧な平仮名で記された書き置きだった。
『つかれてたみたいだから、おこさなくてごめんね。夏生くんのぶんのゆうはんはれいぞうこにあるから、たべられそうだったらたべてね』
「……、秋人」
 あれだけ心配ないと言った癖に、結局彼の手を煩わせてしまった。昼間の不安げな彼の顔を思い出して、夏生はぎゅっと心臓が締め付けられるような心地がした。
 ――明日の朝起きたら、秋人にもう心配ないと礼を言って、それから柊にも謝ろう。任務中に腑抜けた態度を取ってしまって悪かった。今後はこんなことがないようにする。真面目な顔で反省を述べても、彼は散々な悪態で此方をコケにしてくるだろうが、その後にはきっと呆れ顔で頷いてくれる――かもしれない。

 そうするためには、やはり、今夜中に『これ』を解決しておかなければならない。――大体、いくら返事は書けないとはいえ、恐らくはやっとの思いで渡してくれたものをすぐに読まないなんて姉さんに失礼だ。

「……開ける」

 ふっと息を吐いて、自分にだけ言い聞かせる声量で呟く。

 糊付けされた蓋を爪で引っ掻くように剥がすと、華奢な封筒はぺりりと音を立てて呆気なくその口を開いた。中に入っていたのは茶色の罫線が引かれた白く上質そうな便箋で、こんなものが家にあったのだな、と取り留めのないことを思う。
「……」
 姉さんは、こんな自分を怒っているだろうか。それともいつものように、心配していると告げる優しい言葉が載っているだけだろうか。
 意を決して二つ折りにされた便箋を開くと、かさりと紙が擦れる音が小さく鼓膜に届いた。

『午前0時、東A通路の出口で待っています』


 何処をどう走ったのか覚えていない。

 真白い便箋の真ん中にぽつんと記された一行の内容を理解した瞬間、夏生の身体は一切の具体的な思考もなく出口の扉に向かって走り出していた。
 便箋を握り締めたまま部屋を飛び出して、訳も分からぬままエレベーターのボタンを連打していたことだけは覚えている。動揺で足音を立ててしまった気もするが誰も起きてはこなくて、靴を履いていないことに気が付いたのは煌々と明かりが灯る箱から廊下へと降り立った後だった。
「……!」
 東A。施設内に無数に存在する地下通路の中で、指定された其処が昼間柊と通ったばかりの場所だったのは奇跡だった。緑の非常灯が視界の端でちらちら光る。極限まで落とされた夜間照明の中を靴下のまま感覚だけで駆け抜けて、つい数時間前の記憶に残る扉の影を探す。
 東A、東A、東A! ――どうして姉さんが東Aのことを知っている? 何処で、どうやって? わからない。けれど、もし彼女が此処に来ているならどうしても放っておくわけにはいかなかった。
 此処はただの研究施設ではないのだ。家族に会いに来ただけだと言ったって、職員に見つかったらきっと無事では済まない。

「……っ」
 嫌な想像にばくばくと煩くなる鼓動に構わず走り続けて、夏生は漸く見覚えのある廊下へと辿り着いた。

 直線状の長い通路。その先に、ぽつりと一人立つ人影が見える。

 暗闇に佇むそれは背後の非常灯でぼんやりと霞んでいて、逆光になった黒い輪郭は薄く柔らかい緑色の光で縁取られている。夜の中に浮かび上がるようなその姿に目を凝らそうと立ち止まると、人影はゆらりと陽炎のように揺れてその本質をわからなくさせた。

 心臓が早鐘を打つ。体力の消耗からではない息切れが、喉から出る声を掠れさせる。
「……光、生?」
 返事は無い。
「姉さん、なのか? なんで……」
 一歩、近付くと、離れた距離からでも非常灯に照らされたその後ろ姿の華奢さが見て取れた。扉の隙間から入り込んだらしい風で妖しい光を帯びた黒髪が揺れる。不規則に連なってはばらけるそれを見ていると何故だか眩暈がしそうな心地がして、夏生は夢遊病患者のような足取りでその影を追った。
「……ごめん、」
 ――これは何に対しての『ごめん』なのだろう?
「ごめん、俺は……」
 手紙を開かなかったことか。突然いなくなってしまったことか。自分でもはっきりと認識はできないまま、ふわふわと覚束ない謝罪を繰り返す。人影はまだ振り返らない。
 ――これはもしかして、さっきの夢の続きではないだろうか。目が覚めれば自分はまだベッドの上に居て、未だあの封筒を開けてもいないのではないか。夏生がそう錯覚しかけたとき、不意に人影がクルリと此方を振り向いた。

「こんばんは」

 低く、落ち着いた、機械のように平坦な声。

 鼓膜に入り込んで絡みつくようなそれと共に夏生の目に飛び込んできたのは、黒髪であるということ以外は光生のものとは似ても似つかない女性の顔だった。
 漸くはっきりと視認できた華奢な身体が纏っているのはあの人と同じような白衣で、視界の真ん中で揺れているのは都会的に切り揃えられた綺麗な黒髪だった。此処の研究員の一人なのだろう。不測の事態には慣れているのか、突如訳の分からないことを話しかけられたにも拘わらずその顔には驚き一つ浮かんでいない。

「……わ、るい。人違いをした……」
 未だ動揺の抜けない頭で、どうにか謝罪を絞り出しながら辺りを見回したが、通路にも。その向こうに見える出口にも。彼女の他には誰の気配もない。長く真っ直ぐな廊下は風邪と二人分の呼吸音しか聞こえない程静かで、侵入者の大捕り物が行われたような形跡もなかった。
 ――やはり、何かの間違いだったのだ。姉さんが此処に居るわけがない。夏生はほっと胸を撫で下ろした。
 だとしたら、あの手紙は一体何だったのだろう。頭の中にふと素朴な疑問が湧いたが、今は姉の安否への心配がなくなったことに対する安堵の方が上回った。
「すまなかった、驚かせて。……何でもないんだ」
 挨拶をしたときの姿勢のまま動かない女性に軽く頭を下げて。漸く地に足を着けられたような心地で踵を返したとき、かさり、と足元で紙が擦れるような音が背後で響いた。
「……?」

 視界の端を白い紙のようなものがちらつく。するすると廊下の先へ滑っていったそれを追うように数歩先の床を見ると、落ちていたのは一枚の便箋だった。

 真白の用紙に細く均一な茶色の罫線。何処か見覚えのあるその風貌を目の当たりにして、夏生は思わず自分の手の内を確かめるように見つめた。走っている最中に握り締めてしまった『手紙』はぐしゃぐしゃと皺だらけになっていたが、確かに左手の中にあって――つまり、これは自分が落としたものではない。

 ぱさり。背後でまた、紙が落ちる音がする。
「……」
 ぱさ、ぱさぱさぱさ。
 今度は聞き逃しようもなく、何回も。

 床に釘付けにされた視界の中で、無数の便箋が床を滑る。『強化人間』として覚醒した夏生の動体視力は、このような暗闇の中であっても視界を横切って行くそれらに記された文面を判別することを可能にしていた。

 『東B』『東C』『西A』、一部だけが書き換えられた無数の『手紙』が宙を舞う。
「……」


 姉さんから、手紙を貰ったことはない。
 ――だって俺は、この前まで漢字が読めなかったんだから。

「拾わないんですか?」

 まるで感情の籠らない声で言ったその女は、やはりやけに静かな眼差しで此方を見つめていた。

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