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 コツリ、コツリ、コンクリートの床を叩く足音がやけに大きく響くように感じるのは、恐らく彼女の足取りが特段力強いからというわけではない。自分自身の聴覚、視覚、前方から近づいてくる人影に割り入られた僅かな空気の流れに触れた肌の感覚、全神経が彼女の存在に集中しているからだ。

 華奢なハイヒールの靴音。この施設では他に履いた人間を見かけたことがない。

「拾わないんですか?」

 もう一度、女が言う。
 それと同時。くしゃり、土踏まずの下から聞き慣れない音がして、夏生は思わず踵を上げた。
「あ、」
 潰してしまった。ぐしゃぐしゃに折れて靴跡の付いた紙切れを見て、心臓は何故だか踏みつけられたようにずきりと痛んだ。片足立ちのまま見下ろした床は一面便箋だらけで、宙に浮いた運動靴の底を下ろす場所が見当たらない。言葉の意味も理解しないまま、もう一度女の方へ視線を移すと、いつのまにか彼女との距離は手を伸ばせば体に触れられそうな程に近づいていた。

「先日は拾っていただけたので」
「、…………」
「その差異は何処にあるのだろうと」

 鋏でバッサリと切り揃えられたような黒い前髪。此方を見据えたまま焦点の動かない赤く大きな瞳は、髪色と同じく黒く重たい印象を与える睫毛で際まで縁取られている。
「自分に過失があるかどうか、そしてその行為が意図的に行われたものであるか、他の人間が目の前で落とした書類を拾うかどうかにおいての貴方の判断基準は、その二点であるということでしょうか」
「……」
「貴方がそうであると認識されていなかっただけで、先日の接触についても事故ではなく私に意図されたものであり、貴方に過失のない出来事ではあったのですが」
「……」
 ――抑揚のない声で切れ目なく並べ立てられる言葉の意味がよく理解出来ないのは、十時間近い眠りから目覚めた直後だからか、それとも日頃から柊に言われる通り、俺の頭の回転がそもそも良くないからなのか。恐らく、どちらでもある。
 もう一度言ってほしいと頼んで良いものか一瞬逡巡して、夏生は少し躊躇いがちに口を開いた。

「……、拾っ……た、方がいいのか?」
「……?」
「……あんたが……、このままこれを落としておきたい……ということじゃないなら、拾う、……が」
「……」
 それで、構わないのだろうか。
 あまり働かない頭のまま、同じく、というにはあまりにも種類が異なっている気はするが、似たように回りくどい言い回しを常とする同僚の言動を思い返す。――彼の『聞いてんの?』は『聞け』。『しないの?』は時に『しろ』の意だ。この状況で便箋を拾うのかどうかを問うてくるということは、彼女が求めているものもそれと同じだと考えても良いものだろうか?
「……」
「……」
 直接尋ねてはみたものの、特に回答は返ってこない。女はただじっと此方を見つめ、夏生の次の動きを待つようにその場で動作を停止させていた。床から浮いた片足は下ろせないまま、薄暗い廊下には対処しがたい沈黙が流れる。

「……、……拾うぞ」
 意を決して夏生が足元の書類を拾い上げると、女は数秒沈黙した後、同じように低く屈みこんだ。突然の仕草に一瞬驚いたものの、彼女の指先がそのまま手近な便箋を拾い上げたのを見て、夏生も一先ず床に散らばったそれを全て掻き集めることに集中した。
 右、左、右、鏡合わせのような動作で手を伸ばし、コンクリート張りの床を指で掬う。無言のまま全ての紙を拾い終えると、彼女は夏生と殆ど同じタイミングでその白い顔を上げた。
「ありがとうございます」
 重ねた便箋を手渡すと、女は相も変わらず感情の読めない声で礼を言っう。――やはり彼女も、書類を床に落としたままにしておきたいというわけではなかったのだろうか、重ねて先程の行動の意図を問おうかと口を開きかけたところで、彼女の方が先に言葉を続けた。
「つまり、貴方にとっての基準は、私がこれを床に落としたままの状態で維持したいと感じているかどうかということでしょうか」
「、……キジュン」
 向かい合ってしゃがみこんだ姿勢のまま。またしても機械音声のように一定の速度で放たれた言葉を咀嚼するのに少し時間が掛かった。
 キジュン――基準。そのように硬い単語で表現してよいようなものであるかは自信が持てなかったが、彼女の言葉に込められた意図が『拾え』であるならば、そうした方が良いのだろうか、とは考えた。先程提示された二つの選択肢――それが自分のせいかどうか、それがわざと行われたものであるかどうか、という捉え方で合っているのだろうか――よりは、幾らか自分の思考に近いような気もした。
 「たぶん」、曖昧に頷いて答えると、女は「成程」と納得したのかただ相槌を打っただけなのか判別しにくい声を発した。裾の長い白衣を纏った腕に抱え込まれた便箋の束は、既に角が潰れて皺が寄っている。一瞬指摘してやるべきなのか考えたが、この一連の全てがもし自分を此処に呼び出すために仕組まれたことなのだとしたら、彼女にとって最早この紙束は用の済んだものなのかもしれない。
「試行条件が異なるので正確な比較とは言えませんが、同じようなこと、つまり目の前で他者から故意にバラ撒かれた書類を拾い集めるかという状況(シチュエーション)はこれまで十五人に試しました。が、拾わないのかと聞かれてそのまま拾った人間は貴方が一人目です」
「十五人……、」
 ――こんな、どう反応すべきかわからないことを俺以外に十五人にも。呆れるべきなのかもしれなかったが、先程から唐突な展開に驚き以外の感情が追いついて来ない。ずる、と衣擦れの音がした。便箋を拾う際にしゃがみ込んだ拍子にか、気づけば長すぎる丈の白衣の裾は床の埃に塗れて汚れている。汚れるぞ、そう指摘しようと口から飛び出しかけた言葉は、此方の喉をつんと圧迫するように抑えた白い指に封じられる。

「親切な方」

 強化人間ではない、取り立てて屈強であるわけでもない。女性が人差し指で押しただけの微弱な力。しかしそれは、此方の呼吸と言葉を止めるには十分なものだった。
「この数日、私は貴方のことをずっと見ていました」
   赤い瞳がじとりと此方を見つめる。光を反射しないその一対を至近距離で見つめた瞬間、夏生は半ば直感的にここ数日自身の身体に付き纏っていた倦怠感の正体を知った。
 ――あの不可解な負荷は、視線だったのかもしれない。あの夜、報告書を届けに行った帰りにこの女と接触してから。じっと、一挙一動を逃さず捉えようと纏わりつくような視線。瞬きする数秒すら惜しむように逸らさず此方を見つめる目がいつでも離れなかった。ぐ、と柔く押し込むようなひと押しを最後に喉元から指が外れて、今度は上着の襟、首裏の辺りへと女の指が伸びる。
「見ていました、という言葉は適当ではないかもしれませんね。急拵えの盗聴器です。この建物の中でしか効力を発揮しないものですし、あまり収穫はありませんでした」
 盗聴器。聞き慣れない響きに瞠目している内に、ガリ、と至近距離で何か小さな物が剥がされたような音がした。咄嗟のことで注視するのが遅れたが、細い指で何か機械のような物を取り外した残像が見える。
「成果が芳しくなかったので、直接接触を図ることにしたのです。けれど他の方々に知られることは避けたかったので、このように」
「……呼び出した?」
 「はい」、女は間を空けることなくこくりと首肯する。顔を合わせた時から一向に変化の気配のない無表情が脈絡なく此方に一歩近付いて、華奢なその身体が発する言い知れない圧迫感は益々強くなった。
「、……なんのために?」

 白衣の裾から伸びる両手が一瞬視界を埋めるように広がって、白い指が両頬に掛かる。先程と同じ、ただ触れていると感じられる程度の刺激しか齎さない、柔らかい指の力。
「貴方に興味があって」

 親しい人に囁くような距離で放たれた言葉に、やはり自分に見て取れるような感情は宿らないまま。次の瞬間、とん、と軽く肩の辺りを押された身体は床に倒されていた。
「単刀直入にお聞きしますが、」
 温いコンクリートの感触が背筋を走る。くるりと回った視界は天井と此方を見下ろす女を映す。彼女の瞳を見つめた瞬間、何故だか夏生の身体から一切の抵抗の意志は失われてしまっていた。
 

「――貴方、あの人の名前を知っていますか?」

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