(本編ネタバレ・BLっぽかったり等もろもろ注意)
「happily ever after」(春日江+ドクター) 「いつか始まる運命の」(夏生+春日江)「言ってあげるほど親切じゃない」(蕪木+柊)「進路調査票」(秋人+他)

happily ever after


 扉の開く音がする。

 コツコツという靴音と共に室内へと踏み込んできたドクターは、私の手の内にある書籍に視線を向けると、「見かけない本だな」と金色の目を細めた。

「自分で買ったのかい」
「いや、今朝貰ったんだ」

 数日前、何か任務は無いのかと司令室の中を徘徊していた私は、突然ドンと机を叩いた研一君――司令に「本でも読んで大人しくしていろ」と部屋を追い出されてしまった。
 私の部屋には備え付けの本棚が置いてあるけれど、そこに置くべき書籍は一冊もない。家には沢山の本があった気もするけれど、此処に移り住んでからは姿を見た記憶がなかった。きっと誰かが代わりに処分してくれたのだと思う。「本は持っていないよ」と事実をそのまま答えると、司令は少し黙り込んだ後、「届けさせるから、部屋で大人しくしていろ!」と、また同じ言葉を繰り返した。そんなに大きな声を出さなくても、私の耳にはきちんと聞こえているのだけれど。彼はもしかして耳が遠いのだろうか?

 それから暫く言われた通り此処で一人静かに(筋力トレーニングをしたり、壁に向かってナイフを投擲する練習をしたり)過ごしていた所、今朝宣言通りに古い雑誌や絵本が無造作に詰められた段ボール箱――中に『壁に穴を開けるな』という走り書きのメモが挟まっていた――が、私の部屋の前に置かれていたのだった。
「――ケンイチが? 大方職員に頼んだんだろうが、奴もつくづく無為なことをするね」
 一部始終を聞き終えたドクターは軽く溜め息を吐くと、長い足を投げ出すようにして私の隣の席に腰掛けた。長い白衣の裾はその動作に釣られ一瞬マントのように翻って、ソファの表面に辿り着くとすぐにぺしゃんこの白布に変わる。
 私は白衣はあまり好きではないけれど、マントは好きだ。実にヒーローらしいアイテムだと思う。無くても別に困りはしないけれど、あればきっと画面映えすることだろう。
「今度、私も付けてもらおうかな」
「何の話か推測しかねるが、キミの話はいつでも愉快だな」
「そう?」
「ああ、シリメツレツで意味不明な所が特に」
「ありがとう!」
 私の言葉は愉快なのだろうか? それ自体はどちらでも良かったものの、褒められたので元気よくお礼を言っておいた。ヒーローとして、それが正しい行動だ。
 私の返事に何故かくつくつと笑い声を上げ始めたドクターは、暫く笑いを堪えるように身体を小刻みに震わせた後で、ふと思い出したように眼鏡の位置を直して此方を見下ろした。

「それで、」
 彼は私と話をするときに身体を屈めたりはしないから、声はいつでも私の頭の上から降ってくる。
「どんな話だった、キミの趣味からは少々外れている気もするが?」
「まだ開いたばかりだよ」
 ほら、と私が手元の本の表紙を捲ると、ドクターはそれを覗き込むようにテーブルに肘をついて少し姿勢を崩した。
 彼もこういった物語に興味があるのだろうか?
 大人は絵本を読まないものなのだと思っていた。少しだけ意外に思ってその金色の瞳を見つめていると、ドクターは私の言外の疑問を読み取ったようにそっと口を開いた。
「こういうモノはあまり読んだことがないからな、少しね」
「そう?」
 「それなら一緒に読むといいよ!」と提案してみると、ドクターは少しの間首を捻っていたが、少しして「マア、いいだろう」と頷いた。

「『昔々、ある国で王様と王妃様のもとに、うつくしい王女さまが生まれました――』」
 その絵本は、子を授かれず悩んでいた王さまと王妃さまのもとに、ようやく一人の女の子が誕生した場面から始まっていた。
 挿絵の王妃さまは幼子を腕に抱いて穏やかに微笑んでいて、隣の王さまは嬉しそうに涙を流している。どこからどう見ても完璧に幸せそうな、完璧な家族の情景だ。
「よかったね」
 私が感想を言ってぱたりと本を閉じると、ドクターは「まだ途中だろう」と先を急かしてきた。そんなにこの本が気に入ったのだろうか?
 首を傾げていると、ドクターは「キミがこの本に執着していないことは分かるが」と表情を歪めた。
「二十頁ある本を一頁目で閉じるのはジキショウソウってヤツじゃないか。少なくともボクは消化不良になる」
「それもそうだね?」
 彼の言葉通りに頁をぱらぱらと捲っていくと、王女さまは誕生パーティに呼ばれなかった魔法使いの手によって(何で呼ばれなかったのだろう、嫌われていたんだろうか?)『十五歳になると紡ぎ車の錘が指に刺さって死ぬ』という呪いをかけられてしまった。
「錘って何?」
「旧時代の道具だな」
「昔話だね!」
 死の呪いは結局他の魔法使いによって『百年間眠り続ける』というマイルドな呪いに書き変わったものの、当然王さま達の心配は尽きない。
 王さまは国中の錘を焼き払ったのだけれど(少し勿体ないけれど、こういう場合は原因となりうる物自体を根絶してしまう方が確実だ。賢明な判断だと思う)、結局王女さまは十五歳の誕生日に呪いによって深い眠りの中に落ちてしまった。
 王女さまは、朝も夜もなく昏々と眠り続けた。呪いはすぐに城中に広がり、王さまも王妃さまも家来たちも、城に居た人たちはみんなみんな眠りについてしまったのだ。
「『やがて城はいばらの森に覆われ、九十九年がたちました』」
 私がそこまでの話を音読していると、ドクターは茨が絡みついた城の挿絵を覗き込み、「九十九年!」と乾いた笑いを洩らした。
「その間に全員朽ちて腐るんじゃないのか?」
「防腐剤が入っていたんじゃないかな?」
 そうして長い年月が経ったある日、国に隣国の王子さまが訪れる。いばらの城を見かけた王子さまは、近くに住む老人に『あの城には何があるのか』と尋ねた。
「『あの城の中には美しい王女さまが眠っていると、子どものころに聞きました』」  老人の話を聞いた王子さまは『ぜひ王女の姿を見てみたい』と好奇心にかられ、危険を冒してでも城に入ることを決意する。
「成程、この男が主人公格か」
「そうみたいだね」
 淡々とした声で指摘したドクターの言う通り、いばらに覆われた城の前に立つ王子さまの挿絵は勇ましく、いかにも主人公らしいものだった。片手には短剣を持ち、肩にはマントまで掛けている。

 王子さまは一歩一歩土を踏みしめ、鋭い棘を持ついばらのすぐ側まで近付いていき、そうして――

「『王子さまが森へ近づいたちょうどその時、城にかかっていた百年の呪いが解けました』」
「……」

 王子さまは城に入り、眠っている王女さまを見つけてキスをする。そこで目を覚ました王女さまは王子さまに一目ぼれし、一緒に呪いにかかっていた城の人達も皆眠りから覚めたのだという。
「『二人はその場で結婚をし、いつまでも幸せに暮らしました』」
「……」
「『いつまでも幸せに暮らしました』!」
「いや、別に聞こえなかったわけじゃない」
「そうなの?」
 最後の一文を読んでも反応がなかったので、てっきり私の声が聞き取れなかったものと思っていた。
 聞こえていたのなら構わない。満足してぱたりと絵本を閉じると、少しの間沈黙していたドクターは冷めた目で此方を見て口を開いた。

「キミはこの結末についてどう思う?」
「私は好きだよ。ハッピーエンドだからね!」
 私が元気よく答えると、ドクターは「ボクは左程好ましいとは思わないが」と溜め息を吐くような調子で言い捨てた。はんと鼻で笑いながら大きく腕を開く身振りで、ひらひらと動く白衣の袖が視界を埋める。
「その男は結局、城に向かったタイミングが良かっただけだろう?」
「完璧なタイミングで救助に向かうのも救助者の資質だと思うけれど」
 ぴったり百年目に来場するなんて! 凄い偶然だ。王さまに話したら記念品が貰えるのではないだろうか。
「彼は王子さまであって、ヒーローではないからね。多少の不出来は仕方がないさ」
「キミになら、もっと完璧な救助ができると?」

「私が王子さまだったら、百年も待たせたりしないよ」

 私が老人なら、いばらの城を百年も放っておきはしない。私が王さまなら、ただの一つだって紡ぎ車を焼き残しはしない。私がお姫さまなら、百年もすやすやと眠りこけたりはしない。
 けれど、彼らが私でないなら仕方がない。
「それだけだろ?」
 たったそれだけの話なのに、一体何を気にすることがあるのだろう――私が首を傾げていると、ドクターは何故か口元を押さえて少しだけ笑った。私は何か面白いことを言っただろうか? 少しだけ気になるような気もしたけれど、それで彼の機嫌が上向いたならどちらでも構わない。

「この本が気になるなら持って行っていいよ、ドクター。私はもう読み終わったから」
「もう飽きたのか?」
「? そんなことはないけれど、読み終わったからね」
 必要ないだろう。私がそう言って絵本を手渡すと、ドクターはどこか柔らかい手付きで古紙の束を受け取り、鈍く輝く色の目を少し細めて頷いた。
「それもそうだな」

 私は一度読んだ本の結末を忘れないし、忘れたとしてもきっと構わない。
 お姫さまが王子さまのキスで目覚めるように、呪いがいつか必ず解けるように。物語の最後はハッピーエンドで終わると相場が決まっている。

 だから絵本はなくてもいい。エンディングの分かっている物語を何度も開く程、私は心配性ではないから。


いつか始まる運命の


「……あの、」

 両手で封筒を握りしめたまま、カウンター越しに恐る恐る声を掛けると、年配の看護婦は胡乱げな目で此方を見つめた。

 中央地区第三病院の待合室は、いつ来ても診察を待つ人々でごった返している。見るからに具合の悪そうな顔色をした青年、泣き叫ぶ赤ん坊をあやす母親。ソファに座る患者の一人が咳き込むと、連鎖するようにその近くにいた患者たちもごほごほと咳を繰り返した。一刻を争うような患者はまた別の口から運び込まれているはずだが、それにしても人が多い。
「すまな……すみません。すこし、いいですか」
 ――受付の様子は、先程からずっと観察していた。あまり混雑していなそうな時を見計らって話し掛けたつもりだったけれど、失敗だっただろうか。看護婦の品定めするような視線に、迷惑に思われたのかもしれないと感じて自然と声が小さくなる。決まり悪く俯いていると、数秒後には予想に反して柔らかい声が降ってきた。
「君、名前は? お母さんは一緒じゃないの?」
「……あ、」
 単に、子供が一人で此処に来たことを不思議に思われていたらしい。
 疎ましがられたわけではないと分かって、縮こまっていた身体の緊張はゆるやかにほどけた。今度はしっかりと顔を上げて、彼女の目を見据えて言葉を返す。
「鎧戸といいます。えっと……いつも、父さんが」
 もの珍しくて覚えやすい――と、自分ではよく分からないが、名乗るたびに言われるからきっとそうなのだと思う――苗字を伝えると、看護婦の彼女も皆まで言い終える前に思い当たったようで、「ああ、先生の」と合点がいったように笑った。
 彼女は隣の同僚と少しだけ言葉を交わした後、カウンターから身を乗り出すようにして此方に声をかけてくれた。
「先生に伝えてくるから、ここでちょっと待っててね。あ、座ってていいわよ」
 背後を指差されて振り返ると、ちょうど何人かの患者が診察室に呼ばれ、部屋の一番端にあるソファに空席が出来るのが見える。応対してくれた看護婦にぺこりと軽く頭を下げ、空いたスペースへ座るために待合室の入口近くへと向かった。


 ……忘れ物を届けにきただけなのに、妙に緊張してしまった。

 ソファに浅く腰掛けて、はあ、と浅く溜め息をつく。
 人混みは苦手だけど、父さんの仕事場を見られることはどちらかと言えば嬉しい。けれど、身体の方が少しだけ疲れてしまった。家からここまで早足で歩いてきたぐらいでこのざまだ。毎朝この距離を歩いた後で仕事をしているのだから、やっぱり父さんは俺よりずっと凄い人なのだと思う。
 看護師が戻ってくるのを待つ間、所在なく周囲の様子を眺めていると、向かいのソファに、自分と同い歳くらいの女の子が座っていることに気が付いた。
「……?」
 ――肩にかかる程度の金髪に、鮮やかな青色の瞳。
 真新しく仕立ての良さそうな服を着ていて、いかにも良い所の娘さんといった雰囲気の子供だ。此処に本棚は無いはずだから、自分で家から持ってきたのだろう。見るからに年季の入った絵本を熱心に読んでいる。
 同年代の子供というだけならば、自分達の他にも待合室の中に数人いる。その中で俺がその女の子に目を引かれたのは、彼女が一人きりでソファに腰かけていて、周囲に親らしき人物の姿がないように見えたからだ。
 この近くの治安は悪くはないけれど、小さい女の子が保護者抜きで安心して出歩けるほどでもない。彼女の場合は、恐らく普通より目立つ外見をしているように思えるし、余計に危な――
「……っ」
 そんなことを考えながらじっと真向かいの席を見つめていると、不意に少女が絵本から顔を上げた。自分に向けられていた視線に気付いたのか、正面を向いた青の瞳がぱちぱちと瞬きをする。
 思い切り目が合って、反射的に「しまった」と思った。見知らぬ人間にじろじろと顔を見られていたと知ったら、誰だって気分はよくないだろう。かといって、そのことで突然直接謝ってこられても気味が悪いんじゃないだろうか。
 しかし、少女は特に気分を害した様子もなく、寧ろ此方に向けてにっこりと微笑んだ。
「……」
 ……こういうのを、天真爛漫というのだろう。きっと自分も笑い返すべきなのだとは思ったけれど、俺は彼女のように咄嗟に笑顔を作れる自信がなかった。代わりに軽く会釈をすると、彼女は満足したように頷いて、再び手元の絵本に目を落とした。

「ああ、――、此処にいたのね」
 暫くすると、女の子と同じ金色の髪をした、何処となく身なりのいい男女が受付の方から早足で歩いてきた。女性の方が「待たせてごめんね」と声を掛けると、少女は首を横に振ってソファからとんと跳ね降りる。
 ……ああ、両親と一緒に来ていたのか。勝手に心配して、勝手にほっとしてしまった。
 母親に手を引かれて歩いていく少女の背中を見送っていると。彼女が不意に此方を振り返った。
 再び目が合うと、ぱっと花が咲くような笑顔でひらひらと手を振られる。
 思わず背後を確認したが、診察室へと向かう家族の方を見ている患者は誰もいない。自分に向けて振られたのだとようやく確信が持てて、元の方向を振り返ると、女の子とその両親はもう待合室を出ていくところだった。慌てて小さく頭を下げたが、彼女がまだ見ていたかは分からない。

 ――そういえば、ああいう時は手を振り返すべきだったんだろうか。会釈ではなく。

 少女の笑顔を思い返して、ふとそんな疑問が過ったが、もやもやとした思考はすぐに自分の名前を呼ぶ看護婦の声でかき消された。



言ってあげるほど親切じゃない


 命じられたからやるのであって、自分の意志でやっているわけではない。言葉の通じる、無抵抗のイキモノを話し合いもなしに殺すなんてことは野蛮人のすることだ。対象がどんな存在であれ。
 それがたとえ、刻んだはずの傷が数十秒経った今では跡形もなく消えているような。そういう冗談みたいな生物相手だとしても。
 後ろ手と両足に嵌められた枷がカチャカチャと音を立てている。何の変哲もない見た目の拘束具だったが、強化人間の力を持ってしても未だに破壊されていない所を見ると、それなりの強度は持っているようだった。
 ひとり放置されたそれに、俺はあえて足音を殺さずに近付いていった。たとえ視界を塞がれていても、部屋に入ってくる人間の気配ぐらいは肌で感じられるのだろう。枷を外そうと足掻いていたらしい彼の動きが少しだけ止まった。
 横たえられた身体の傍にしゃがみ込むと、雰囲気で相手が息を呑んだのが分かった。
「……」
「っ、ひ」
 不意に両手で首筋に触れると、白い喉元が震えて短く高い声が漏れた。その滑稽さに少しだけ愉快な気分になって、そのまま両手の指に強く力を込める。勢いのままに首を絞め続けると、下敷きにした身体が捕食者の手から逃れるかのように動いた。
 つくづく無駄な悪足掻きをする奴だと思う。全身で覆い被さるようにして無理矢理に押さえつけると、細い肢体が腹の下でびくびくと跳ねる。
「う、あ……」
 抵抗が弱くなり、呻く声も途絶えそうになった所で、一度首筋に絡ませていた指を解く。
「っ、はあ」
 喉が酸素を求めて激しく上下するのを黙って見ていると、男が動いた勢いで後頭部で結ばれていた白いタオルがずり落ちる。漸く目隠しから解放された柊は、俺の顔を見て特段驚愕するようなこともなく、ただ黙って此方を睨むように見上げた。
 瞬間的に背筋が凍りつく。誰が見たって状況は圧倒的に此方に有利で、相手の目尻には生理的な涙が溜まっているぐらいで。本当に、何の迫力もないはずなのに。
「悪く思うなよ」
 個人的な感情からやっていることではないのだから、それで俺自身を恨まれても困る。そう真摯に視線で訴えかけたが、柊は蔑むような表情で小さく首を横に振るだけだった。殺される方がそんな理由で納得できるはずもない。無理もないことだった。
 けれども、まるで哀れむようなその顔を見た瞬間に、言葉では形容しがたい衝動が腹の奥から湧き上がってくるのを感じた。
「なあ、」
「……なに」
 身体は強く床に押し付けたまま、右の掌ですっかり血の気の失せた?に触れる。そのまま撫でるように長い髪に指を滑らせると、思いの外柔らかかった。此方の様子を怪訝そうに見つめていた柊の顔が不快そうに歪む。
 その瞳を真っ直ぐに覗き込んで、小さな子供に囁くような声で言った。
「痛いのか、君でも」
「……っ俺は、いつも」
 そう言ってる。
 呪詛のような低さで放たれた声に、そうだったな、と相槌を打つ。ああ、確かにこの子供は、いつでもはっきりとそう口にしていた気がする。
 けれど、
「そんなはずないだろ」
 橙色の瞳が大きく見開かれて、揺れる。その一瞬を逃さず視界に捉えて、もう一度両手で彼の首を絞めた。
 俺は喜び勇んで生き物を殺しにいけるような残虐な性質ではないし、こんな子供のことなんて心底どうでもいい。
 ただ、これで此奴と関わることが、このまだ幼さが抜けきらない面を見ることが金輪際なくなるのであれば。少しはこの地下で息をするのが楽になるかもしれない、粗悪な安物の煙草の味も、もう少し美味く感じられるようになるのかもしれないと思う。
 徐々に光を失くしていく瞳の色を観察しながら、ずっとそんなことを考えていた。

 そういえば、何故この男を殺すことになったのだったか。当然、命令されたからだ。
 誰に?

「誰でもないよ」

 数秒前に息絶えたはずの男の声が耳元で響いて、次の瞬間に目が覚めた。


 珍しく、夢を見た。
「仕事の時の服で煙草吸うの控えてくれません? 居るだけで臭いんで。近寄らないでくれるなら別にいいんですけど」
 内容はよく覚えてはいないが、起きた時はやけにスッキリとした気持ちだった。きっと良い夢だったのだと思う。その割にシャツを替えなければならないほど寝汗を掻いていたのは不可解だったが。
「生憎だが、この服以外を着る時の方が少ないんだ」
 そういう訳で、今朝は随分と気分が良かった。相も変わらず刺々しい部下の暴言も、軽い調子で受け流してやれるぐらいには。
 この分なら、今日はこの後にどんな追撃が来たとしても笑って躱せるだろう。分別のある大人らしく、寛容に。
「……蕪木さん、」
「何だ」
 そう思っていたのに。柊は珍しく反論することもなく、ただ何か物言いたげな目で此方を見上げていた。

「……何でも」

進路調査票


「なあ、お前は進路どうすんの?」

 不意に掛けられた声に驚いて、次の授業のノートに目を落としていた顔を上げる。

 先週の席替えで前後になった佐伯くんはかなりお喋りな気質で、ことあるごとに振り返って僕に話し掛けてくれる。それ自体は有難いのだけれど、授業中にヒソヒソと囁いてくるのは先生の視線が痛いのでやめてほしい。今は昼休みだから大丈夫だけど。
 二月の少し肌寒い教室は喧騒に満ちていた。皆の話題の中心は今日が提出期限の進路調査票で、教室のあちこちで似たような単語が飛び交っている。まだ二年生であるということもあって、まだ何と書くか悩んでいる人が多いようだ。僕自身も色々と考えてはいるけれど、結局まだ記入を済ませてはいない。
「僕は……工場の事務を第一希望にしようと思うんだけど、どうかな。今年は人気らしいから」
「ああ〜! 佐藤と高倉もだぜ多分、確かに結構倍率高いんじゃねえ? 俺は発電所系って書いたんだけどさあー、多分無理だよな、でもまだ一年だし夢見てても良いかな? みてーな」
 大げさに天を仰ぐ身振りに苦笑しながら、半分愚痴のようになってきた話に相槌を打つ。
 士官学校に行くようなエリートとは違い、僕達のような高等学校普通科の生徒――この新東京に置いて、いわゆる中間層にあたる人々――は卒業したらすぐに就職する人が大半だ。「飛び抜けて秀でた『何か』があれば普通科からでも軍に引き抜かれる」という話も聞くけれど、そんな人はほんの一握りだろう。優秀な生徒は官庁系やエネルギー分野の企業への就職を目指すし、そこまでは無理でも大抵の人は何らかの形で職を見つける。それでもなければ、
「まあ結局? 食えれば何でもいいんだけどさあ、高校出て志願するのだけは嫌だな」
「ああー……」
 彼が言う志願というのは、士官学校出ではない一般人が自ら希望して『異形』の討伐軍に訓練兵として入隊することだ。勿論給金は出るし衣食住は確保できるけれど、日常的に命の危険がある職に進んで就きたがる生徒は殆どいない。基本的には上官に使われるだけの立場になるし、訓練兵というのは名ばかりで入隊直後から前線に立たされるという噂もある。
……まあ、「兵士でなければ無事でいられる」という保証もどこにもないのだけれど。
「僕も出来れば普通に就職がしたいかな。運動ダメだし、足手まといになりそうで」
「運動出来たって無理だって! お前だって写真とか見たことあるだろ、あいつら相手に下手したら白兵戦? 無茶だっての、それこそサイボーグ戦士とかじゃないとさ」
「それは旧時代の漫画の見過ぎじゃないかな……うーん、でも、そのお蔭で僕達が安心……? して、暮らせてるわけだし」
 あまりこき下ろすようなことはしない方がいい、と一瞬続けようとしたが、思い直して口を噤んだ。下手に偉そうなことを言ってクラスメイトの機嫌を損ねるのは避けたい。揉め事は運動以上に不得意だ。ふっと小さく吐いてしまった溜息は幸い気に留められなかったようだった。
「だって下手したら死体も戻ってこないらしいじゃん、先月もさあ、――っ」

 突然背中に強い衝撃を感じたのと、佐伯くんの言葉が不意に途切れたのは同時だった。

「おい」

 あ、椅子の背を蹴られたのか。認識した瞬間に背後で聞こえたのは地の底から響くような低い声だった。思わず硬直して佐伯くんの顔を見ると、彼も完全に動作を止めている。先程まで得意げだった筈の笑顔は明らかに引き攣っていた。ああ、……嫌な予感しかしない。
 恐る恐る振り返ってみると、そこには制服を派手に着崩した男子生徒の姿があった。
「聞いてんのか」
 予感は悲しいことに当たってしまったようだ。
 威圧感たっぷりの目で僕達を見下ろしている彼は――なんというか、僕のような地味な生徒にとってはかなり近寄りがたいタイプの人だった。シャツの釦は第二どころか偶に第三まで外れている(この時期に寒くないのかな?)し、三年の男子を殴ったとか、出席日数が足りないとかで担任に怒鳴られているのをよく見かける。授業に出ても眠っていることが多く、人を寄せ付けない振舞いのためにクラスメイトからは遠巻きにされている。ありきたりな言い方をしてしまえば、彼はいわゆる不良生徒だった。
 彼は僕と佐伯くんを見比べるように視線を動かしている。どうか僕に用じゃありませんようにと祈るような気持ちで待っていると、彼が再びゆっくりと口を開いた。
「あー……こっちでいいや。メガネ」
 ああもう確実に僕に用だ。というより今僕が振り向いたから「こっちのメガネでいいや」って気持ちになったんだろうな――縋るような思いで前の席を振り返ると、佐伯くんは素知らぬ振りで次の授業の準備を始めている所だった。此方に背を向ける彼を薄情だとは思わない。逆の立場だったら僕も同じことをしそうなので。
「……お前、名前なんだっけ」
 幾ら苦手とはいっても、面と向かって話し掛けられたのを無視するわけにはいかない。どうにか喉の奥から声を絞り出す。
「アッ、えっと、僕は――」
「やっぱいいか別に、メガネで。おいメガネ、お前今日早退しないよな」
「は、はい……」
 此方を射竦めるような鋭い目と視線を合わせないようにしながら答える。早退、早退はしない予定です。これから君に突然殴られて骨折したりとかしなければ! 
「じゃあ代わりに集めとけ、進路調査表」
「はい! ……え? あ、日直?」
「そーだけど」
 蓋を開けてみれば、なんてことはない。彼の用事は至極簡単な頼み事だった。どんな無理難題を押し付けられるのか、五体満足で家に帰れるんだろうかなどと勝手に身構えていた自分が恥ずかしいし申し訳ない。下手なことを口に出したり不意をついて逃げたりしなくてよかった。
「わ、わかった、先生に出しておくね」
「よろしく。これ俺の分」
「うん」
 承諾の返事をして、差し出された彼の分の進路調査票を受け取った。あのときの僕はきっと、安心していつもより気が緩んでいたのだろう。普段なら気付いても決して口には出さなかった筈だ。

「……いいの?」
 彼の進路希望表に記入されていたのは氏名だけで、第一希望の欄にも第二希望の欄も何も記入されていなかった。

「いいんだよ」


「――人、秋人」
「……ん、あれ……ヒッ」
 至近距離で視界に飛び込んできた険しい顔に、思わず悲鳴をあげそうになったのを寸前で抑えた。ぱちぱちと瞬きをしてから周囲を見回す。そこはもちろん真冬の教室などではなくて、見慣れたコンクリートの壁に囲まれた地下室だった。
「……僕、もしかして寝てた?」
「ああ」
 神妙な顔で肯定された。向かいのソファに陣取った柊くんは「もしかしなくても超爆睡だけど」とせせら笑っているし、その隣の春日江くんもうんうんと頷いている。穴があったら今すぐ埋まりたい。どうやらシャワーの順番待ちの間にソファで寝入ってしまっていたみたいだ。『外』から戻って来て早々に始めたジャンケン大会で夏生くんが一番を勝ち取っていたことは覚えているのだけど、そこから先の記憶はおぼろげだった。僕は結局何番になったんだっけ。
 情けなさに溜息をつきながらも座り直したけれど、妙な姿勢で眠っていたせいか身体のあちこちが微妙に痛い。
「気付いてたなら起こしてやればいいだろ」
「そこまでする義理ないし、寝相見てる方が面白かったからね、……っく、思い出しても意味分かんないあの恰好……」
「静止している筈なのに躍動感のある見事な姿勢だったよ。完成されすぎていて起こす発想がなかった」
「お前ら……」
 どんな体勢で寝てたんだろう僕。
 三人はもう当事者である僕を放置してぎゃんぎゃんと賑やかな口論を始めている。実を言うと僕も「欲を言えばもう少しだけ早く起こしてほしかったな」なんて贅沢なことを一瞬考えてしまったが、口に出さなくて正解だった。そう長い付き合いではないけれど、柊くんと春日江くんに(こういう方面で、何というか、……過度なやさしさを)期待はしない方が身の為だということは十分分かっているつもりだし。いくら疲れていたとはいえ、自室でもないところで寝こけてしまう気の緩みが悪い。
 それにしても随分と懐かしい夢だった。あの頃冗談のように話していたサイボーグ――ではないけれど、それと大差ない存在になったあの日からはまだ一か月と少ししか経っていないのに、それ以前の出来事はどこか遠い昔の思い出のように感じる。

 白紙の票を僕に託した次の日から、彼は学校に来なくなった。教師からは何の説明もなかったけれど、クラスメイト達は彼の父親が亡くなったらしいと噂していた。皆彼の進路をあれこれと予想していたが、僕は多分家計を支えるために志願兵になったのだろうと密かに思っていた。途中で学校を辞める生徒なんてそんなに珍しくはないので、彼に関する噂話や憶測合戦は一週間も経たない内に止んだ。だから本当の所彼がどうなったのか僕は知らないし、もしかしたら同じ学年の誰も知らないのかもしれない。
 それから三か月後、僕も彼と同じように前触れなくあの学校から居なくなった。けれど僕は彼に比べて存在感が薄かったから、噂話なんてきっと誰もしていないのだろうと思う。

 彼の名前は何だったか。あの日の僕は多分知っていたんだろうけど、今はもう記憶の底に沈んでしまって思い出せない。彼は僕の名前を知らなかった。それはあの日からずっとそうで、今は白紙の進路調査票を誰に渡したかも覚えていないだろう。
 それは僕達が特別薄情な訳でも何でもなくて、その程度の別れはこの街にありふれているからだ。
 なのに今の僕はそのことを少し、本当に少しだけ寂しく思っている。

「……疲れてるんじゃないのか? お前が先に入れよ」
 僕が黙っていたのを疲労のせいだと勘違いしたらしく、心配そうな顔の夏生くんが提案してくる。「お前は後で平気だろ」と視線を向けられた柊くんが嫌そうに顔を歪めた。どうやら僕は三番目を勝ち取っていたらしい。
「え……、い、いや、大丈夫だよ。順番通りで」
 気遣ってくれるのは有難いけれど、ただ昔の夢を見てぼんやりしていただけだ。わざわざ交代してもらうのは申し訳ない。というか後が怖い。首を振って遠慮の意を表明すると、いつの間にか僕が座っているソファの縁に腰掛けていた春日江くんが肩をポンポンと叩いてきた。
「弱者には優しく接するのがヒーローとしてあるべき姿だし。そうするといいよ」
「お前は元から最後でしょ……。まあいいや、今度順番変わってね」
「ふ、二人とも……」
 この寛容さはきっと完全なる気紛れだと分かってはいるけれど、僕は少し感動していた。この二人にここまで譲歩させて断るのは逆に申し訳ない気がする。今日はその言葉に甘えさせてもらって、今度何か埋め合わせをすることにしよう。
「ありがとう……! なるべく早く出――」

『警報発令、C-3地区にて二体出現を確認』

「……」
 けたたましいサイレンの音。続けて天井に取り付けられたスピーカーから流れる音声に、春日江くん以外の三人はがっくりと肩を落とした。続けて境界内の住民向けに情報を流し始めた男性の声が、感情の一切見えない女性の声に切り替わる。
『警戒レベルは2ですが、処理後にサンプル採取の業務がありますので全員に出動を要請します。至急で』
「戻った意味もシャワー浴びた意味もなかったな……」
「……ジャンケン負けといて良かったかも」
 夏生くんは首に掛けていたタオルをソファに投げ捨てると、疲れた表情を浮かべながらも出口に向かって走って行く。その姿を見て心底嫌そうに溜息を吐いた柊くんもすぐさまその後に続いた。物凄く不機嫌そうなオーラは全く隠せていないけれど。
「よし、私達もすぐ行こう――ヒーローに遅参はあるまじき行為だよ、阪田君!」
「待ってまって首締まってるから……!」
 一人だけ目を輝かせた春日江くんに引っ張られて、というより服を掴まれて半ば引きずられるようにして僕も駆け出す。弱者に優しく云々の話は何処へ行ったんだろうと思うような強引さに涙目になりながらも、振り解いて足を止めようとは思わなかった。

 走り出した先には、何もかもが崩れた『外』の世界が待っていて、僕はそこで自分の背よりも大きい怪物と渡り合わなければいけないのに。
 なのに――僕は今、何故だかあの教室に居た頃より満たされている。

 夢で見た彼のことを思い出す。きっともう二度と会うことはないだろう。あの頃は何でもなかったことを少しだけ寂しく思うのも、今の自分が充足しているからに違いなかった。失ったものの存在をすっかり忘れられるわけではないけれど、今の生活が、此処で得られたものが嫌いではないから。
(彼もどこかで、そういう気持ちになれているといい)
 なんて、無責任だな。自分でもそう思って苦笑しながら、前を走る三人の後を追った。




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