(本編ネタバレ等もろもろ注意)
「サンタクロースが来なくても」(夏生+秋人) /  「As You Like It」(秋人+ドクター)

サンタクロースが来なくても


 討伐を終えると、辺りはすっかり真夜中だった。

 夕方まで降り続いていたらしい雨に打たれた地面はまだ少し泥濘んでいて、濡れた土はひとつ歩を進める度に靴底にへばり付いて固まった。凝り固まった泥を少しでも落とそうと、時折爪先で軽く地を叩いてはみたものの、とぼとぼと帰路を歩む片手間では払った側からしがみついてくるそれらを全て剥がすことは難しかった。
 ――戻ったら、一晩乾かして置いておこう。靴についた泥を落とすのはそれからでもいい。一向に実る気配のない奮闘に見切りをつけて視線を正面に戻すと、隣を歩いていた秋人が不意に「あ、」と声を上げた。
「どうした?」
「雪だ、」
 同年代の青年達よりはすこし幼い印象を与える丸い瞳が大きく見開かれて、どこか嬉しそうにぱちぱちと瞬きをする。はしゃいだような男の声色につられて顔を上げると、確かに鉛色に曇った空から白いものがはらはらと落ちてくるのが見えた。
 ふわふわと宙を舞って降りた結晶が地面に白い斑点をつくって、時たま泥まみれの水溜りに触れては跡形もなく溶ける。
「雪だ」
 見る見る内に積もり始めた雪に、思わず数秒前に聞いた声を反復すると、穏やかな笑みを浮かべた秋人が「うん、」と何故か弾んだ声で相槌を打った。
「もしかして初雪かな?」
「……そうだな」
 近頃寒くなってきたとは思っていたが、もうそんな時期だったのか。毎日境界外に出向いているわけではないから正確なことは分からないが、自分が見る分には確かに今年初めての雪だった。
「そっかあ、」
 もう冬なんだね。白い息と共にそっと呟かれた言葉に「ああ」と頷いて、夏生は何となしに隣を歩く男の横顔を盗み見た。
 ――雪が好きなのだろうか。先程から何処かはしゃいだような様子の秋人は、手袋を嵌めた掌をそっと空の方向へ向けて、しきりに落ちてくる雪を眺めている。白い結晶の塊が肩に落ちて、夏生よりは少し長めに切り揃えられた薄茶色の髪が北風に揺れても、寒さで僅かに紅潮した顔はやはり少し楽しげだった。

 此処に来てからは目まぐるしい日々に追われてあまり季節を意識していなかったが、世間はもうすっかり冬なのだ。十二月も終わりに近付いていて、もう何日か過ぎれば年だって変わってしまう。
 俺が特務機関に来たのが六月の終わりだから、秋人達に初めて会った時から既に半年近く経っている計算になる。そう考えると、長いような短かったような――上手く言葉には表せない、不思議な気持ちになる。

 いつの間にか過ぎていた月日の流れに浅い感慨に浸っていると、明るい声が右耳に届いた。
「今日って、十二月の二十四日だよね」
「? そうだと、……ああ、いや」
 「思う」と口に出しかけて、数時間前に施設を出発した時の時刻が既に零時に近かったことを思い出す。「もう二十五日だな」と訂正すると、秋人は「わあ」と小さく歓声を上げた。
「じゃあ、ホワイトクリスマスだね! 珍しい」
「ホワイト」
 聞き覚えのない横文字に夏生が思わず首を傾げると、穏やかな微笑みを浮かべた秋人が「あ、」と気が付いたように言葉を付け加えた。
「ホワイト、英語で『白い』って意味だよ。雪は白いから」
「そっちじゃなくて、……えっと、」
 ――その後だ。何だったか。これまでの人生で聞いた記憶のない単語だったから、すぐに思い出すことができない。
「クリスマス?」
「くりすます」
 復唱して「それだ」と頷くと、男は少し驚いたように目を丸くした。
「初めて聞いた」
「そう? ……でもそっか、新東京(ここ)じゃ別に何もやらないもんね」
 一瞬だけ首を捻っていた秋人は、すぐに「僕も昔に本で見ただけだし」と納得したようにうんうんと頷いた。
「……どういう意味なんだ?」
 『初めて聞いた』と口にしたときの秋人の反応からして、知らないままでも困るような言葉ではないことは何となく分かっていたが。それが先程からの彼の嬉しそうな様子と関係のあることならば少し気になった。
 彼は見た目こそ同年代の中では幼いけれど、中身はどちらかといえば自分より大人びている青年だから。今夜のように、(それでも、かなり控えめだけれど)無邪気にはしゃぐ姿はすこし珍しく感じた。
「え、ええっとね……、僕も直接見たりしたわけじゃないから、細かいところは間違ってるかもしれないんだけど、」
 説明を求められると思っていなかったのか、秋人は少しあたふたとした様子で此方の顔を見上げた。それでも丁寧に前置きを入れる男の目を見てこくりと頷くと、突然のことに慌てていた男の顔がほっとしたように緩む。
 ――それに、秋人の話を聞くのは好きだ。
 これまで知らなかったことを知ることは勉強になるし、彼の優しく穏やかな声は聞いていて心地いい。そして何より、彼が自分に向けて話をしてくれることがうれしかった。
 にこにこと笑って口を開く友人の横顔を見ながら、夏生はそっと青年の話に耳を傾けた。

「クリスマスっていうのは、キリスト……外国で信じられてる神様の誕生日をお祝いする日のことでね、」
 どういった宗教なのか、内容までは勿論よく知らないが、俺も『キリスト教』の名前ぐらいは聞いたことがある。神様にも人間と同じように誕生日があるとは知らなかったが。
「それが十二月二十五日なんだって。日本にも、旧時代には少しその文化が入ってきていたみたいなんだけど」
 簡単に噛み砕いた口調でそこまで説明した秋人は、「今はもう全然残ってないよね」と少し惜しむような顔で笑った。
 旧時代に消えてしまった行事なら、『新東京』生まれの自分が知らないのも無理はない。そもそもの存在を認識していなかった自分は勿論特に何も感じていなかったが、本で『クリスマス』を知っていた秋人には、それが自分の暮らす街に存在しないことへの寂寥感が多少なりともあったのかもしれない。
「お祝いって、何をするんだ?」
「教会でお祈りに参加したり、モミの木をきれいに飾り付けしたり。家族でごちそうを食べたり……あ、あとね、」
 思い出したようにぽんと両手を叩いた秋人は、少しだけ続きを勿体ぶるように間を空けて、とっておきの秘密でも告げるような笑顔で口を開いた。
「二十四日の晩にはサンタクロースって人が来て、子どもにプレゼントをくれるんだ」
「サンタクロース?」
「そう、サンタクロース」
 またもや聞き覚えのない単語に首を捻っていると、にこにこと緩い笑みを浮かべた秋人が「赤い服を着た優しいおじいさんだよ」と教えてくれた。あまりの情報量の少なさに、恐らく本来の事実はもっと複雑なのだろうと思ったが、俺の理解速度に話を合わせてくれたのであろう秋人の気遣いを無駄にするのも何だ。
 ひとまず頭の中に赤いコートを着た優しげな老人を思い浮かべてみて、彼が一晩中子供達の家に贈り物を置きに駆けずり回る光景の不自然さにすぐに頭から追い払った。今度秋人に絵か何かで描いてもらおう。
「二十五日はキリストの誕生日なのに、何で子供がプレゼントを貰えるんだ?」
「それは、話すとちょっと長くなっちゃうんだけど……」
 ふと浮かんだ疑問への返答に「なら今度教えてくれ」と首を横に振ると、秋人は何故か少しおかしそうに笑って「うん」と頷いた。俺はまた何か変なことを言っただろうか?
「一年間いい子にしていたら、クリスマス・イブの夜にサンタさんがプレゼントを届けてくれるよ、って言い伝えがあってね。子ども達が寝静まった頃に煙突から家の中に入って、枕元に吊るした靴下の中にプレゼントを入れてくれるんだ」
「靴下に」
「うん。それで、二十五日の朝目覚めた子どもは、真っ先に靴下の中のプレゼントを探して……そういうことをする日なんだ」
 楽しそうだよね。そう何処か夢見るような口調で語る秋人の顔は、心なしか普段より少し幼いものに見えた。
「もちろん、本当に煙突から入ってこられるわけないし、プレゼントを置いてるのは大抵子どものお父さんやお母さんなんだけど」
「? サンタクロースじゃないのか?」
「サンタさん一人で全部の子どもの家を回るのは無茶だからね。お手伝いが必要なんだ。……なんてね」
 そこまで語り終えた秋人は、ふふ、と自分の言葉を茶化すように微笑んで、いつも通りの穏やかで大人びた眼差しを此方に向けた。
「ロマンチックで好きだったんだ、子供の頃。なんだかちょっと素敵だよね」

 ――一年間いい子にしていたら、サンタクロースが贈り物を届けてくれる。

 日頃の努力を、良心や親切を、遠くから誰かが見守っていてくれて、それに対してご褒美をくれる。
 それは確かに、素敵な話かもしれない。人の志や頑張りはいつだって、必ずしも臨んだ結果に繋がるものではないけれど、出来ることならば少しの報いがあってほしいと夏生は思う。それが年端もいかない子供ならば尚更だ。
 らしくもなくそんな、『ロマンチック』な空想に浸ってしまったのは、きっといつかの晩にはサンタクロースを待っていたかもしれない、誰かのことを考えたからだろうか。

「そうだな」
 夏生が深く頷くと、秋人は「夏生くんもそう思う?」と声を弾ませた。

「それはなんだかちょっと、うれしいな」

 にこにこと笑って眉を下げる、その本当に心底嬉しそうな顔を見て、夏生は半ば無意識の内に口を開いていた。

「……俺が代わりに、何かやろうか?」
「え?」
 ――そうだ。そうしよう。口にするのとほぼ同時に固まった考えに頭の中で賛同して、夏生は此方を見上げていた男の顔をそっと見つめ返した。

「サンタ、クロース。の、代わりだ」
「き、急にどうしたの?」 
 先程まで安心しきった笑みを浮かべていた顔には隠しきれない戸惑いが滲み、鮮やかな緑の目には怪訝そうな、というより此方の意図を測りかねているような焦りの色が浮かぶ。
 ――言葉が足りなかったかもしれない。突然浮かんだ考えの道筋を上手く説明づける自信はなかったが、一先ず「俺も良く分からないが、」と前置きして言葉を付け加える。
「お前に何かあげたくなった」
「どういうこと!?」
「頑張っただろう、特に今年は」
 夏頃からの出来事を脳裏に思い返しながら話すと、秋人はあからさまに顔を赤らめて言葉に詰まった。
「いや、あ、あれはね……て、ていうか、そういうことを言うなら夏生くんの方がいつも何でも頑張って」
「俺はいい。何も思いつかない」
「えええ」
 「そんな、申し訳ないよ」と久々に弱々しい悲鳴を上げる秋人に、此方も珍しく「いつもの礼だ」と駄目押しの追撃をする。
「迷惑でなければでいい。から、俺に出来そうなことを考えておいてくれ」
 自分などに用意できそうなものはそう多くないが、例えば部屋の片付けを手伝うとか、共有スペースの掃除当番を代わるとか。余らせていた自分用の備品代で代わりに何か買ってもらうのでもいい。
「なんでもいいぞ」
 そう言葉を付け足すと、秋人は何故か少し目を見開いて、その後すぐにはああ、と大きな溜め息を吐いて顔を覆った。
「……待ってね、ちょっと考えてもいい……?」
「ああ」
 勿論だと夏生が頷くと、秋人は「ありがとう」と一瞬だけ微笑んで、その後は言葉通りにじっと腕を組んだまま何やら考え込む姿勢に入った。
 パーツの端々に幼さの残る顔立ちに真剣な表情を浮かべたまま、時折「ううん、」だとか「ああ」だとか呻き声を上げる秋人の姿は、普段から穏やかな態度を取ることが多い彼にしては物珍しく、無礼を承知で話すのならすこしだけ面白かった。

 ――頭がよくて、多分人よりも落ち着いていて、大人びた、物わかりのいい言葉で話せるのは此奴のいいところだ。けれど。

 絶え間なく降る白い結晶が辺りを舞って、数分前よりも厚く積もった雪が地面をその色に染め上げる。

 先程よりも少し大きくなった気のする雪の粒は、立ち止まった二人の身体にも楽しげに降り注いで、肩先から黒手袋を嵌めた指先までをしんと冷やした。はらはらと落ちてきた柔らかい雪が、見通しのいい瓦礫の街を吹き抜ける風に揺られて薄茶色の髪の毛にぺたりと貼り付く。
「秋人、」
「?」
 手袋を脱いだ右手をそっと彼の方へ伸ばすと、目前の思考に集中しきっていた青年はきょとんとした表情で此方を見上げた。
「積もってる」
 柔らかい茶髪の上に薄く積もった雪を指で拭う。凝固したばかりの結晶は触れた瞬間に体温の熱で溶けて、夏生の肌の上で生温かい水滴になった。
「……ありがとう」
 鮮やかな緑色の瞳を大きく見開いた青年の顔は、普段のそれより何処となくあどけなく見えた。

 ――けれど、そればかりではきっと疲れてしまうだろうから。いつでもどこでもそうでなくたって、いい。


「夏生くん、あのね。さっきの話だけど」

「思いついたか」
「僕もね、いまはなにも思いつかないな」
「なんだ、そうなのか」
「だって、今日も無事に帰れたし、雪はきれいだし。充分すぎるぐらい充分だよ」
「そうか?」
「うん」
「そうか」

「……サンタさんは、今年も来ないだろうけど、」

 君がいたから、それでいいんだ。


 今日は言わないことにした言葉は、じんわりと熱を持つ自分の胸の内だけで溶けていった。


As You Like It


 目を開けて、最初に見つめたのは灰色の天井だった。

 ざらり、と、かすかに指に触れた冷たさで意識を取り戻す。

 麻痺したように利かない掌を必死で広げて、ぎゅっと握りしめた柔らかいものはどうやら薄い布地のようだった。縋るように力を込めた指先から、じわりと少しずつ熱が通うように身体の感覚が戻ってくる。

「……、」
 いまはいつで、ここはどこか。
 がちがちに固くなっていた首をゆっくりと回して、天井から手元へと視線を落とす。ぼんやりと焦点の定まらない目を擦ると、先程から身体を包んでいた布地は染み一つないシーツとやわらかい毛布であることが分かった。なんだ、布団か。ふわふわした安堵と共に欠伸が洩れて、一瞬醒めかけた眠気が再び戻ってきた。
 全身が鉛のように重い。けれど何故だか左程の不快感はなくて、全身に凝り固まっていた鬱屈や気怠さまで全て使い切った後のような心地よい疲れが全身を支配している。
 昔、本当に小さいとき、妹が生まれる前のころ。何も考えずに遊び疲れて寝た昼間のことを思い出した。
 何処からか吹いてきたそよ風が顔に当たる。ひんやりとつめたいシーツは、少し冷えるけれど火照った体にはちょうどよく気持ちがいい。

 ――もうちょっとだけ、寝ちゃってもいいかな。

 ごろりと散漫に寝返りを打って、見えるのは素っ気ない灰色の壁、灰色の天井、隣にはもうひとつのベッド。
 視界の真ん中で真白く輝くその無機質なかたちを見つめながら、僕はゆったりと瞼を閉じる――寸前、シーツの隙間に見えた人影に寝惚けた思考は一瞬で吹き飛んだ。

「……っ!」
 停止していた脳が急速に回り出す。バネ仕掛けの人形のようにベッドから跳ね起きて、隣に横たわる人間の姿にじっと目を凝らした。

 忙しなく瞬きを繰り返すとぼやけていた視界は急速にクリアになって、はっきりと形を取り戻した黒い髪の輪郭が脳髄を揺らす。瞼を閉じたままぴくりとも動かない青年の顔に一瞬喉の奥が引き攣って、しかし腹の辺りで微かに上下する布団にほっと安堵の息を吐いた。――息をしている。
 生きている。

「夏生、くん」

 目前に横たわる存在を、現実を。噛み締めるように呼んだ声はひとりごとだった。端から起こすつもりはない。

 すやすやと安らかな表情で眠る青年の寝顔を見つめて、阪田秋人は未だ脈拍の整い切らない胸を撫で下ろした。
 そっと閉じた瞼の裏に、チカチカと点滅するような激しさと鮮烈さを伴う昨晩の記憶が雪崩れ込んでくる。
 思い出した。すべて。
 ――勢い余って揺り起こさなくてよかった。ベッドの上でそっと溜息を吐いて、未だ目を覚まさない『友人』の顔を見つめる。疲れているのだろう。『境界外』では全身から漂っていた血の匂いこそもう感じ取れないが、ぐっすりと眠り込んで動かない身体はちょっとやそっとの物音では目を覚ましそうにない。
「……」
 無理もないことだ。あんなにぼろぼろになるまで戦っていたのだから。

 血塗れでも歩みを止めない青年の姿が脳裏に蘇って、思わず掛け布団の裾をぎゅっと握り締める。記憶に焼きついた痛々しさに心臓がきしきしと軋むのと同時、帰り道で腰を抜かし、そんな状態の彼に最後は半ば背負われるような格好で地下まで戻ってきた自分の不甲斐なさに思わず顔を覆った。
 ――今思い出しても情けない! 彼が目覚めたら、この件については改めて謝罪させてもらおう。まず間違いなく「気にするな」と言われるだろうけど、そしてそれは紛れも無く嘘の無い彼の本心なのだろうけれど。その優しさに甘えるばかりでは僕の気が済まない。
「……」
 なんだ、そんなことか。それくらいなんでもない。気にし過ぎだ――そう言って笑う青年の顔を想像して。居ても立ってもいられない心地になるもどかしさの原因は、骨の髄まで染みついたギブアンドテイクの論理とは少し違う。
 してもらったから返さなければとか、そうしなければ後が怖いとか、そういうのではなくて。そういうことではない。

 ただ自分が、彼に傷付いてほしくない。それだけのことなのだ。


 昨晩、C地区に出現した異形の討伐を終えて、僕達は『境界内』へと戻ってきた。疲労困憊の中、倒れ込むように地下道の入口まで辿り着いたところまでは覚えているが、そこから先の記憶が途切れている。

「……さむ、」
 冷房が効いているのだろう。頭上から微弱な風が吹き付ける部屋の中は気付けば随分と冷え込んでいて、身体を蒸すような屋外の空気とは比べ物にならない。 剥き出しになった腕の寒さに軽く肩を抱いた所で、秋人は自分の服装が見慣れない入院着のようなものに変わっていることに気が付いた。ゆったり開いた襟元、薄緑色の乾いた肌触り。自分の手で着替えた記憶はない。

 隣に眠る青年の肩まで掛け布団がしっかりと被っていることを確認して、秋人はぐるりと部屋の中を見回した。
 打ちっ放しコンクリートの部屋に簡易ベッドが二つ。味気ない金属製の枠組みに敷かれた白いシーツには染み一つない。機能性以外をまるきり排除した部屋のつくりは、窓が無いことを覗けば何処かの病院の一室のようだ。――ここは恐らく機関の医務室か何かだろう。
 誰かが運んでくれたのだ。ひとまず無事に目的地へ戻れたことに安堵して、秋人は改めてほっと胸を撫で下ろした。
 何の拘束もなく寝かされていたことから考えても、ここにいれば当面は安全であることは間違いない。彼のことは暫く寝かせておいてあげたいところだけれど、自分が目覚めたことだけでも他の人に伝えにいくべきだろうか。

 対応を迷って金属製の扉に視線を送った瞬間、カチャリ、と勢い良くドアノブが回った。
「!」
 計ったようなタイミングで響いたドアの音に、思わず肩がびくりと跳ねる。
 ――職員の人だろうか。それとも柊くん?
 キイと音を立てて開くそれから視線を外せずにいると、緩く開いた扉の隙間から、ひらりと縦に長い男の体躯が姿を現した。

「気が付いたか」
 視界の端で、長い白衣の裾が翻る。
 ぽかんと口を開けたままの秋人を他所に、コツコツと足音を立ててベッドの傍まで歩み寄った男は、此方を見下ろすように金色の目を細めた。
「……ドクター……、さん?」
 予想外の人物の登場に、口の端から思わず間抜けな声が洩れる。

「敬称は無くていいと言ったはずだが」
「す、すみません……?」
 反射的に謝罪を口にして、秋人は唐突に現れた男の顔をまじまじと見つめた。
「その、……まだ慣れなくて!」
「それは人を呼び捨てにすることに対してか、それとも」

 ――往来を歩いたなら確実に人目を引くであろう黄緑がかった髪。ひょろりと縦に長い痩せ型の体躯。細い縁の眼鏡の奥の金色の瞳は爬虫類のように人間味がなく、その裏にある感情を読み取ることを阻んでいる。

「『横文字の肩書で呼ぶのは恥ずかしい』からか?」
 キミも。
 自らを『ドクター』といかにも偽名じみた通称で呼ばせる男は、そう何処か楽しげな調子で言い放った。


 ――大雑把にカテゴライズするなら、彼も『職員の人』といえば職員の人であることに間違いはない。ないのだけれど、此方に戻っていの一番に彼と顔を合わせるものとは思っていなかった。
「輸血に消毒、粗方の処置は二時間程前に済んでいる」
 ドクターという人間の素性について、自分が知っていることはそう多くない。『特務機関』に属する研究者。恐らくは日本人ではない。話し方がいちいち回りくどい。そのくらいだ。
 そして、彼についてその程度の知識しか持ち合わせていないのは新人の自分だけではない。かなりの秘密主義であるらしいかの人は、被験体である僕達だけではなく共に働く職員達の殆どにも身元どころか本名すら明らかにしていないらしかった。初めて知ったときにはそんなことで生活が成り立つものなのかと不思議に思ったものだが、秋人が知る限りでそこに意を唱えた職員はいない。――裏を返せば、それほどに自由奔放な振舞いが許容される程度には、彼が『強化人間』計画に関わる者の中でも中心的な立場にあることは想像に難くなかった。
 常に中央政府との調整に追われている『司令』程ではないかもしれないけれど、終始多忙そうに施設内を飛び回っている彼と自分がまともに言葉を交わす機会はこれまでに二回しかない。
 一度目は『強化人間』候補として初めて特務機関を訪れたとき、――二度目は。

「外傷に関してはほぼ問題ない回復度合いだ。骨の方も繋がってはいるが、あと半日は不必要に動き回るのは止した方がいい」
「あ、ありがとうございます」
 唐突な再会に動揺する秋人を他所に、ドクターはカルテでも読み上げるかのような調子で淡々と言葉を続けた。医師を思わせる静かな口調に、ひとまず礼だけは返せたものの次の発声内容が思いつかない。
「……えっ、と、その、柊くん達は……」
 咄嗟に此処に居ない同輩の名前を口にすると、ドクターは「ああ、」と左程興味なさげに頷く。
 ――彼らの名前を出したのは半分ただの時間稼ぎのようなものだけれど、半分は本心からのことだった。異形の討伐以外の事柄に関心が無さそうな春日江くんはともかく、柊くんは様子を見に来るかと思っていたのだ。
 彼が此方の動向を気にしていたことは分かっていたし、支給されていた通信機を壊してしまったことに対しても多少の小言は覚悟していたのだが。耳を澄ましても、外の廊下に足音の気配はない。
「彼らは次の任務に入っている。ただの後処理だから、討伐要請が入ったわけじゃない。此処は医務室。現在時刻は午後三時四十六分二十五秒、キミ達が此処に到着してからは八時間十三分が経過した」
 矢継ぎ早に飛び込んでくる情報を必死に脳内で整理する。――八時間強、随分長く寝こけてしまったようだ。この部屋はやはり医務室、柊くん達はここにはいない。僕達の身体の手当ては既に終わっている。
 夏生くんだけじゃない。僕の方も外傷は既に殆ど無いようなもので、大方の怪我はもう回、復して、いる。
「ところで、――ボクが認識できる(わかる)、ということは」
 わざとらしく人差し指で眼鏡を押し上げて、男は何処か悪戯っぽい笑みを浮かべた。そして僕は、

「『見えている』な、眼鏡(コレ)が無くとも」

 その仕草が、その瞳に浮かんだ好奇の色が、はっきりと視認できている(見えている)と。
 自覚した瞬間。

「……め、」

 質量が、色が、雪崩れこんでくる。鋭く光る瞳の金、消毒液の匂い、三人分の呼吸の音。寝起き特有の生理的な涙の膜が張った瞳から、エアコンの冷風に押し出され流れる空気が触れた耳から。流れ込んで届いて溢れた情報は眼球の裏側から脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き乱して、
 そして、

「目が回る……」

 唐突に容量をオーバーした頭はあっけなく横へと傾いて、僕は再びぱったりとシーツに倒れ込んだ。


「――ま、これでも飲みたまえ」
 さあ取れとばかりに差し出されたペットボトルを言われるがままに受け取って、秋人は曖昧な苦笑を浮かべた。

「……す、すみません、ありがとうございます……」
 唐突に襲い来た眩暈に耐えきれずベッドに沈みこんで数分。漸く回復してきた上半身を再び起こして、手渡された水――少なくとも見た目だけは、そうであるように見える液体――をまじまじと見つめる。
「どうした、飲まないのか?」
「い、いえ、はは……」
 事も無げに言い放つ男に誤魔化すような笑い声を上げて、秋人はゆるゆると鈍い動作でペットボトルのキャップを外した。
 ――この人には以前一服盛られたことがある。あの時は遅効性の睡眠薬で害はなかったけれど――あからさまに怪しいことには変わりないが、やはり今回も断るわけにもいかず。中の液体を口にすると、明らかに水ではありえない刺すような苦味が口内を襲った。
「っ〜…………!」
「気付け薬だ」
 反射的に吐き出しそうになった口を寸での所で抑えていると、向かいからいかにもあっけらかんとした呑気な声が聞こえてくる。
 鈍く粘つくようなそれをやっとのことで飲み干した所で、ドクターは金色の瞳を細めて朗々と語り出した。
「精密検査は明日以降になるが、必要なら二郎君にアイマスクでも持って来させよう。そのぐらいなら経費で落ちる」
「いえ! だ、大丈夫です。ちょっと、……」
 未だ舌に痺れを残す気付け薬とやらの効能かは不明だけれど、先程までの脳を揺らすような眩暈はもう殆ど収まりつつあった。この期に及んで他人の手を煩わし続けるほどの不調ではない。
「前と比べて、多分……見えすぎて、頭が混乱しただけで」
 ――目に見えるもの全ての情報量が多すぎた。それこそ眼鏡を掛けていた時よりもずっと鮮明に感じる景色は、改めて認識すると初等学校の頃からどこか覚束ない視界に馴染んでいた自分には少々刺激的に過ぎたのだろう。
「それはそうだろう。それで、」
 男は常と変わらぬ怪しげな微笑を浮かべたまま、長い脚を窮屈そうに組んでベッドの端に腰掛けている。
「いつからだ?」

 僕はそれらの光景を、眼鏡という視力矯正具無しでもはっきりと視認することができる。今朝方三階から落ちた時に負ったはずの傷は今や跡形もない。

 ――つまりそれらは、僕の身体にも夏生くん達と同じ『強化人間』の能力が発現したことの証明に他ならなかった。

「……今朝から、です」
 慎重に答えを返しながら、秋人は漸く目の前の男が直接この部屋を訪れた理由に思い至った気がした。
「任務の途中で、……その、色々とあって」
「へえ?」
 そう相槌を打つ男の口元は緩く弧を描いていて、ヘッドボードに頬杖を付くその表情は何処か満足げだ。
 つまり、恐らくは、――動作確認のためだったのだ。五月の上旬に受けた強化から早一カ月以上、漸く覚醒を終えた『三人目』の強化人間の。

「……驚いたり、されないんですね」
 思わず口から漏れた言葉に、男は特段動じる様子もなく言葉を返してきた。
「『驚く』というのは、に何に対してだ?」
「……この一カ月、何をしても駄目だったのに、急にどうして、とか」
 どれだけ訓練を受けても、柊くん達の任務に同行しても。何の効果も得られなかった被験体が唐突に能力を開花させたというのに、男の態度には驚愕や動揺と呼ぶべき感情がまるで見受けられなかった。
 ドクターだけではなく、この場所自体にしてもそうだ。別の階の職員がどのような反応をしているのかは流石に此処からでは聞き取れないが、少なくともこの部屋の外の音に耳を澄ます限りでは、予定外の出来事にバタバタと走り回っているような雰囲気ではない。
「いいかい、」
 薄く笑みを浮かべる男の顔の、およそ体温というものがないような血色の悪すぎる肌色に少々面食らって、心なしか瞬きの回数が増える。――この人、こんな顔をしていたのか。
 決して初対面ではない男の顔立ちに新鮮さを覚えるのは、単純に視力の上昇のせいなのか、それとも、此処に戻るまでの僕が、それだけ人の顔を見ていなかったということなのか。

「キミ自身には詳しく言っていなかったかもしれないが」
 ぼんやりと思考が脇に逸れかけた瞬間、ドクターは不出来な生徒に言い聞かせでもするように青白く細い指で此方を指差した。
「キミの強化は、最初から失敗したわけではない」
「へ?」
「出力までの経路に問題があっただけさ。多少遅れが出たとはいえ、キミ自身の精神状態が変化すればいずれ能力が出現することは此方としては想定の範囲内だった」
「……」
 事も無げに語られる見解に秋人が黙り込んでいると、ドクターはくすくすとわざとらしく乾いた笑い声を漏らした。
「マア、『いずれ』より先にキミという個体が死亡する可能性も十二分にあったわけだが。ナニゴトも速いに越したことはない。一カ月程度で済んで研究室の連中も胸を撫で下ろしていることだろう!」
「……」
「それに、」
 つらつらと語り続けた言葉を一瞬、恐らくは故意に途切れさせた男は、こんもりと布団が被せられた隣のベッドへと視線を向けた。
「キミの精神状態に何か変化が起きるなら、それは『今回』である可能性が高いと」
「……」
「――『ボクの目には』そう見えたというだけだよ」

 先に言っておいてくれれば、とは思わなかった。
 任務の際に武器を支給されていることからも、自分がまだ機関に見限られていないこと自体は予測がついていた。けれど、それは常に頭に『まだ』が付き纏う希望的観測であって、昨夜までの僕にとってはとても安心材料とはなり得ない予想でしかなかったのだ。
 仮に今の説明を任務の前に聞いていたとして、能力が発現する前の自分がそれを信用したかどうか。――自分で言うのもなんだけれど、名前も知らない人間の言葉を手放しに信じられる程お人好しな性格はしていなかった。
「……。ぜんぶ、お見通しだったってことですね……」
 思わず漏れた溜め息と共に言葉を吐き出すと、ドクターはほんの少しだけ意外そうな目付きで「ふむ、」と小さく頷いた。
「こういった言い回しではさして怒りを覚えないんだな、キミは。ヒイラギ君なら今頃レッカの如く怒り散らしているところだが」
「……」
 彼ならばそうだろう。ここにはいない同僚の顔が頭を過って苦笑いが浮かぶ。
「いえ、僕は別に……事前にお話を聞いていたとしても、それで僕が何か出来たかは怪しいですし。……」
 間違いなく口をへの字に曲げるであろう彼とは違って、今の自分には目の前の男や組織の職員達に対する怒りはない。
 と言えば、聞こえはいいだろうけど。
 裏を返せば、これといった親しみも期待もない。彼らは彼らの都合で行動し、僕は僕の思考で死にかけただけで、そこに個人的な恨み辛みが発生する程、僕は彼らのことを人間として意識していなかった。それだけの話だった。
「……それに、」

 誰かの目から見れば、とっくの昔に分かり切った予定調和だったとしても。
「――僕には、僕の目に見えたものが、」
 君が見せてくれたものが。
 君がいる世界を見たいと決めたときから。

「本当だから、それでいいんです」

 言い切る瞬間にふと肩が軽くなって、いつの間にかこぼれていた笑みは作り笑いではなかった。

「……成程?」
 耳に届いた面白がるような低音にはっと我に返る。頬杖を付いていた腕をいつのまにか崩して、男は長い脚を散漫に組み直していた。
 ――思い返せば、今のはかなり生意気な発言をしてしまったんじゃないか?
「……あ、えーっと、その、別に今のはドクター先生の話がどうでもいいとかそういうことではなくて!」
「キミでも浮き足立つと墓穴を掘るんだな、意外だ」
 取って付けたような弁明を「それはどうでもいい」とあっけなく切り捨てた男は、軽く笑ってベッドの上から腰を上げた。
「――キミは先程、全てお見通しだったのだろうと言ったが。それは違う」
「?」
「能力の発現自体が、『可能性が高い』だけのボク達の希望的観測に過ぎないということもあるが。仮に出現まで漕ぎ着けたとして、キミが此処に残るかは分からなかった」
 続いた台詞は少しだけ意外で、秋人は何故だか数時間前に聞いた男の言葉を思い出した。
 ――『これから、どこで、どうするんだ』。
 『強化人間』の力を手に入れて。それから、此処ではない、何処か別の場所へ逃げるという選択肢も。もしかしたらあり得たのかもしれない。
「キミが此処に居るということは、キミにも此処に居る理由があるということだ」
 強靭な身体と能力を手に入れながら、異形と戦う責を負うこともない世界。決して平坦ではないかもしれないが、いつかの平穏を目指して一人で生きることを許された世界。僕が選ばなかっただけで、昨日までの延長線上にはあったかもしれない未来。
「その理由が何処であれ、ボク個人としては歓迎すべきところだ。何故って、」
 それに微塵の未練も感じないのは、きっと少し間抜けで、けれど、幸福なことなのだろう。

「目的がある人間の方が扱い易い。それと、」
 ふらりとドアに向かって歩き出した男が、金色の目を細めて此方を振り向いた。

 黒い靴を履いた爪先が不意に持ち上がる。

「単純に、面白い」

 すれ違いざまにガタン、と派手な音を立てて蹴飛ばされた隣のベッドは上下に激しく振動して、布団に包まったままの床の主の身体はゴロゴロと床に投げ出された。

「へ?! ち、ちょっと……?」
「――そういえば、言い忘れていたんだが」
 跳ね起きる僕を横目にドアノブに手を掛けた男は、いかにも底意地の悪そうな爽やかな笑顔で告げた。

「キミ、寝癖凄いぞ」


 ぐるぐると筒状に巻かれた布団の中から「うう、」と寝惚けた呻き声が聞こえてくる。
 簀巻きにされたまま床に転がった身体を助け起こした後、思いの外派手に跳ねているらしい前髪を咄嗟に押さえたのは、失態を見咎められる恐怖ではなく。羞恥、つまりは君の前ではもうすこし格好の付く人間でいたいという見栄だった。

「おはよう、夏生くん」

 僕が一番好きな時間は今日から朝で、僕の一番好きな季節は今日から夏だ。
 そういうことになるだろう。こんなことを考える自分は昨日よりずっと馬鹿になっていて、それでもきっと、昨日よりずっと好きな今日である気がしていた。



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