「……悪いな、手間を掛けさせてしまって……」
「い、いやいや! 全然だよ、えーっと、こっちの紙は……ああ、明日の検査のお知らせみたいだね」

 机を間に挟む形でソファに腰掛けて、夏生は先程受け取った資料に関する事細かな解説を受けていた。

「『明朝十一時に研究室へ。朝食は抜いておくこと』、だって。それで、研究室への行き方は……」
 途方に暮れた末に助けを求めてしまった相手――阪田は、机に積まれた書類の山を丁寧に切り崩しながら、その一つ一つを特に詰まることもなくすらすらと読み上げていく。自分では一行も満足に読みこなせなかった文書を流れるように解読していく男の姿に感心しながら、夏生は漸く明らかになった資料の内容を頭の中に留めた。

「こっちは……生活用品の申請書だね」
「……これは、何を頼めばいいんだ?」
「あ、ええっとね……」
 素朴な疑問を口に出すと、阪田は少しの間戸惑ったように沈黙したが「そうだなぁ、」と呟いてすぐに再び口を開いた。
「石鹸とか食べ物とか、皆で使うものはまとめて頼んじゃうから、こっちの紙は個人で使用するもの用だね。消耗品……えっと、たとえば歯ブラシとかタオルとか、後は下着とか? 新しいものが必要になったらこれに書いて職員の人に渡す、って感じかな……」
 ――なるほど、漸く理解できてきた気がする。先程蕪木さんと話した際にも同じようなことを言われたような気はするのだけれど、漢字が読めないことを告白するか迷っていたこともあり、正直あまり話の内容が頭に入ってきていなかったのだ。
「自分で買わなくてもいいんだな」
「うん。僕達は自由に外出できないから、その辺りは職員の人達が用意してくれるみたい。……た、たぶん」
「そうか……」
 何とも自信なさげな口調ではあるが、平易な言葉選びでゆっくりと喋ってくれているからだろうか、阪田の説明は、一度に多くのことを覚えるのが得意でない自分にも比較的理解しやすかった。
 『特務機関』で出会った他の人間――あの人や春日江、柊達が各々かなり個性的な話し方をすることもそう感じる一因かもしれない。話を途中で遮られることも、会話の端々で不思議な横文字や辛辣な罵倒が飛んで来もしないことが却って新鮮に思える。

 少し不安げな表情をした阪田に向かって頷くと、彼は少しほっとしたように微笑んで、「鎧戸くんが自分で提出してくれてもいいし、僕に言ってくれれば一緒に書いて出しておくから」と控え目な口調で付け加えた。
 ――代筆してもらえるのは確かに有難いが、そこまで面倒を掛けるのは流石に申し訳ない。平仮名程度なら時間を掛ければ一人でも書けるのだから、阪田に頼るのは出来る限り最終手段にしようと心に決めた。
 阪田はその後も暫くテーブルの上に残った書類をぱらぱらと捲っていたが、まだ確認していなかった資料に一通り目を通し終えると、軽く「うん、」と頷いて再びこちらに向き直った。
「あとの紙は……今急いで見なくても大丈夫かも。武器に関してとか、僕が話すより柊くん達にその場で説明してもらった方が早いと思うし」
 武器――そういえば、初任務の際には何も支給されていなかった気がする。あの時は結局土壇場で柊や春日江の得物を借りて戦うことになったが、今後は自分も何か個人用の物を預けてもらえるのかもしれない。
「そうか、……」
 そういった物騒な分野に関しては、確かに阪田より此処に長く居る彼らの方が手慣れているのかもしれない。ばらばらに散らかっていた書類を律儀に一つに纏めて、机の上でトントンと揃える青年の几帳面な姿を見つめ、夏生はひとり納得の表情を浮かべた。
 ――そういえば、阪田が武器を振う所はまだ見たことがないな。そんなことを考えながら少し過去に意識を飛ばしていると、直ぐに纏めた資料を机に置いた阪田が、再び此方に向けて口を開いた。

「ええっと……他にも何かわからないことがあったらまた言ってね! あっ、僕も分からなくて役に立てないことも多いかもしれないけど……」
「いや……ありがとう」
 あの時は蕪木さんに置いていかれたことで少し焦っていて、ついその場に現れた阪田を頼ってしまったが――目の前に座る彼のうっすらと隈が残る目元や疲労の滲む顔色を見て、今更ながら罪悪感が募ってくる。
 早く寝直したかっただろうに。寝不足で体調が優れない所を捕まえて、とんだ面倒を掛けてしまった。
「色々と……面倒を掛けたな」
「ううん、全然……」

「……」
「……」

 不意に会話が途切れて、テーブルを挟んで向かい合う二人の間に生温い沈黙が流れた。
 阪田は書類を離した両手をどこか所在無さげに膝の上で組みながら、何か言葉を接ごうとしたのか、小さく唇を開いて――やはり特に言うべきことが見つからなかったらしく、またすぐに閉じる。黒縁の眼鏡の奥にある緑色の瞳は不安げに視線を彷徨わせていて、如何にも手持無沙汰でそわそわとした様子だった。
「…………その、……部屋に戻って良いんだぞ」
「へ?」
 恐らく、話が終わった後に立ち去るタイミングを逃してしまったのだろう。阪田は初対面の日から俺に対してかなり遠慮がちというか――いや、春日江や柊に対しても似たような態度だったから、それが彼の普通なのかもしれないが――やや怖がっているようなきらいがあった。そんな相手に自分から『じゃあ僕はこれで』とは言いにくいのかもしれない。
 ――そう考えて俺から切り出してみたのだが、阪田はどうしてか何故かぽかんとした顔をしている。上手く意図が伝わらなかったのだろうか?
「俺と居たら疲れるだろう?」
「えっ!?」
 そう考えて言葉を付け加えてみると、阪田はびくりと大きく肩を跳ねさせて、何故かわたわたと慌てた様子で口を開いた。
「そ、そんなことないよ!」
「?」
「……そ、そういう風に見えちゃったならごめんなさい。でも……」
「……。…………?」
 今にも泣き出しそうな表情で弁解する阪田の様子に違和感を覚えて、夏生は先程の自分が発した言葉を思い返してみた。
 俺は単に、部屋に戻りたいなら戻ってくれて構わない、他人と一緒に居ては疲れが取れないだろうと言っただけで――いや、俺自身はそれ以外に深く考えず発言していたが、あの言葉は悪く取れば『気まずさ顔に出ている』、『不快だから部屋に戻れ』と言っているようにも――取れなくはない。
 ……というより、俺のように無愛想な男に淡々と言われたらそうとしか聞こえないだろう。
「いや、その……別に、そういうことを言ったわけじゃないんだ」
 漸く自分の非を察し、とにかく誤解を解いた方が良いと慌てて口を開く。
「疲れてるんだろう、なら早く寝た方がいいと、そう言いたかっただけで……、……引き留めた俺が言うのはおかしいけど……」
 ――世話になっておいて、無意識に更なる精神的負荷を掛けてしまうなんて本当にどうしようもない。
 しどろもどろになりつつも弁解し、「変な言い方をして悪い」と謝罪すると、阪田は丸い目を一瞬大きく見開いて「ああ……、」と頭を抱えた。

「早とちりしちゃってごめん。『疲れる』なんてことは本当になかったんだけど、本当はちょっと……、緊張してたかも。ごめんね」
 先程より少し落ち着いた様子で再び口を開いた阪田は、やはり少し申し訳なさそうな顔つきで――自分の言葉が下手だっただけで、彼に特に非はないのに――此方に向き直った。
 同い年ではあるが身長にかなり差があるため、座っていても少し見上げられているような感覚になる。
「ほら、鎧戸くんと二人きりで話すのって初めてだったから」
「そうだったか」
「うん、今まではいつも皆と一緒の時だったし……」
 言われてみれば――これまでも多少、『世話役』の名の下に生活面の説明をしてもらうことはあったものの、それは他の二人も同席する場であることが多かった。はっきりと覚えているわけではないが、確かにこうして二人きりで長時間会話したのは今日が初めてかもしれない。
「何を話そうかなあってぐるぐる考えてたんだけど、面と向かって『俺と二人は疲れるだろう』と言われるとは思わなくて……ちょっとびっくりしちゃった」
「そうか……」
 あの何処か落ち着きのない振舞いは、早くこの場を離れたい気持ちの表れではなく、次の話題を考えてくれている途中だったらしい。余計な気を回して失敗してしまった。
 そもそもあまり対人経験のない自分が、態度から相手の意図を推察しようと試みること自体が早計というか、身の程知らずだったのだ――そんなことを思いながら静かに話を聞いていると、阪田は少し視線を下に向けて俯いた。
「けど、本当に面倒なんかじゃなかったんだよ。君とは一度話してみたいって思ってたし、それに……」
 阪田はそのまま床を見つめてぼそぼそと小声で呟いていたが、途中でハッと何かに気が付いたように勢い良く顔を上げた。
「いやその、僕なんかにそんなこと言われてもそっちの方が迷惑だよねごめんね!?」
「!? い、……いや、そんなことはな……、……」
 「無いぞ」と言いかけて、このままでは先程のやりとりの再現――互いの立場を交換しただけの繰り返しになってしまうことに気が付いた。どちらかが断ち切らない限り延々と続きそうな堂々巡りだ。
 夏生が固まると、阪田も同じことに気付いたようだった。ぱっと此方を見上げた緑色の瞳と、そういえば恐らくは、今初めて――はっきりと目が合う。
「……」
「……」
 二人で顔を見合わせて少し固まって、どちらからともなく力の抜けた表情になる。室内にはこれまでよりも少し緩んだ空気が流れた。

「……さっきの書類、」
 思えば、俺の方も今まで少し緊張してしまっていたのかもしれない。
 自分達のやりとりの不毛さに肩の力が抜けた拍子なのか、先程説明を聞いている最中に心の中だけで木霊していた言葉がするすると口から流れ出てきた。
「……お前は全部読めるのか? すごいな」
「えっ。あ、……ありがとう……」
 これまで阪田と話す時は大概『ごめんなさい』という返事ばかり聞いていたためか、それ以外の言葉が返ってきたことに少し驚いた。勿論悪い気はしなかったのだけれど、阪田は苦笑するとすぐに「けど、」と首を横に振る。
「学校で教えてもらっただけだから、別に僕がすごいわけじゃないよ」
「……そうか?」
「うん。もっと出来る人はたくさん居るしね」
 ――本当にそうなのだろうか? 学校に通っていれば、自分も阪田のように色々な文字を読みこなせるようになっていたのだろうか。そう疑問に思った夏生は、学校に通っている自分の姿を少し想像してみた。毎朝校舎に通い、さまざまな授業を受けて、そこで習った知識を自分のものにして――
「……いや、」
 仮定の話だけれど――多分、無理だろう。ついていける気がしない。

「同じように習っても、俺はたぶんお前と同じようには出来ないから。すごいと思う」
「……」
 想像の結果を正直に告白すると、阪田は何故か呆気にとられたような表情で固まった。
 ……また何か子供じみたことを言ってしまったのだろうか。柊やあの人に蔑みの目を向けられることには耐性がついてきたものの、阪田のように穏やかな人間にまで呆れられるのは少し堪えるかもしれない。
「よ、鎧戸くんって……」
「……何だ?」
 これで阪田にまで『バカじゃないのか』と言われたらどうしようか――などと危ぶんだが、阪田の口から出た言葉は、予想に反してとても穏やかなものだった。

「……なんていうか、こう、すごく、……素直な人なんだね」
「……。…………そうか?」
 此方を見て柔らかく微笑んだ彼の表情からして、悪い意味で言われたわけではないらしい。しかしあまりぴんとこない言葉の内容に首を捻っていると、阪田は尚も柔和な表情のままで肩をすくめた。
「そうだと思うよ。うん、何だか、……柊くんが気にする理由がちょっとわかったかも」
 柊。何気なく話題に上った名前に先程の危惧が蘇り、自分の表情が少し苦々しいものになるのを感じる。
「……俺はやっぱり、お前の目から見ても呆れるぐらい馬鹿なのか?」
「い、いや、そこじゃなくって……! 何ていうか、真っ直ぐすぎてちょっとはらはらするっていうか……柊くんが心配するのもわかるなって。思っただけだよ」
 耳に届いた言葉の意味と、数十分前に目にした此方を蔑むような男の表情が同時に脳内を駆け巡る。――心配。柊が。二つの単語をどうにか頭の中で結びつけようと数秒間考えてみて、直ぐにその無謀を悟った夏生は小さく首を捻った。
「心配、は……してないだろう、お前に世話係を押し付けるぐらいなのに」
「うーん、あれは……僕に気を遣ってくれたのもあると思うけど」
「……気を遣った……」
 予想外の単語に思わず鸚鵡返しをしてしまうと、何がおかしかったのか、阪田は堪えきれないとでも言うように軽く噴き出した。

 こうしていると、これまでの数日間は本当に彼と個人的な話をしたことがなかったのだと改めて実感する。別に避けていたわけではないが、俺の態度や外見がよく相手に余計な緊張や不安を与えてしまうことは分かっていたから。そういった空気を纏っていた阪田に、自分から必要以上に話し掛けることはこれまであまりなかったのだ。
 しかし、こうして少し会話を続けさせて貰って、俺の返答に阪田が何故か笑ったりしていて――何が変だったのかは未だによくわからないが――彼の自分に対する緊張感が薄れたのなら、それに越したことはない。

 朝よりも随分と気分が明るくなった夏生は、この機会に以前彼の出自を聞いてから少し気になっていたことを尋ねてみることにした。
「……そういえば、阪田は……学校に通ってたんだろう」
「? あ、うん。高校にね。途中までだけど……」
「それが、どうして此処に?」
 『強化人間』として選ばれた理由自体は自分と同じ、例の身体的適性とやらなのだろうが、彼が特務機関に目を付けられるようになった経緯が分からなかった。春日江や柊が機関に来るまで何をしていたのかは分からないが、阪田は数か月前まで普通に都市部で暮らしていた人間だという。恐らく俺のように血液販売業者の世話になったわけではないだろう。

 そう考えて質問すると、阪田は納得がいったように頷き、「そんなに面白い話じゃないと思うけど、」と控えめに前置きして話し出した。
「僕の通っていた学校では、四月に健康診断があったんだけど、その時に生まれて初めて血液検査を受けてね。それでその……適性? っていうのが見つかったみたいで、」
「……」
「しばらく後に家に来た蕪木さんから『強化人間』の話を聞かせてもらって……それで、……五月には学校を辞めて、こっちに来たんだ」
 それは――特に何か事件に巻き込まれることもなく、平穏無事に暮らしている所に突然強化人間や特務機関の話を聞かされて、此処に連れてこられたということか。
 自分が強化人間になった際の状況が状況だったためか、事故か何かで死にかけていた所を強化されたのではないかと勝手に考えていたのだが、全くの勘違いだった。
「それは……その、大変だっただろう」
「ううん。まあ、驚きはしたけど……僕自身はそんなにでもないよ」
 阪田は苦笑して首を横に振ったが、夏生にはとても『そんなにでもない』こととは思えなかった。
 ――異形に殺され掛け、あの人に命を救われたという経緯はあるものの、俺はあくまで自分の意志で選んで此処に居ることを望んだ。だから自分の身体が作り変わったことにも、異形と戦うことにも何も不満は無い。
 けれど阪田の場合は――それでは、前触れも無く突然平和な生活を奪われたのも同然ではないだろうか。
「……ご家族は……」
 恐る恐る尋ねると、阪田は少し笑って「うちは両親と、妹がひとり」と柔らかく答えた。
「それは……、……寂しがってるだろうな」
「まあ、でも、……一人っ子じゃないからね。そこはまだましかなあ」
 二人居れば一人減っても平気というものでもないだろう。笑いながら放たれた言葉にそうは感じたものの、それを口に出したところで彼の置かれた状況が好転するわけでもない。
「初めて『強化人間』の話を聞いたときは確かにびっくりしたけど、皆良くしてくれるし……そんなにつらいことはないよ」
 「『異形』を見るのはまだちょっとね、慣れないけど」と苦笑いで付け加えながらも、阪田はどこか落ち着き払った口調で語った。
 ――此処の人間、というか『特務機関』に対しては、陰で愚痴の一つや二つ洩らしても仕方のない境遇だろうに。こうして自分と二人で話している時にも、あくまで『良くしてくれている』と形容する男の律儀さに少し胸が熱くなるのを感じる。
 黙って聞いていると、阪田は「まあ、……」と申し訳なさそうな表情で眉を下げて言葉を続けた。
「お世話になってるくせに、何の役にも立てなくて。いつも皆に迷惑かけてばっかりなのは、本当に申し訳ないんだけど、」
「そんな……」
 少し俯いて弱弱しく言葉を吐く男の姿が見ていられなくて、夏生は思わず考え無しに口を挟んでしまった。
「……ことは、ないだろう。同じ新人でも、お前は俺と違って考え無しの馬鹿じゃないし、壁もコップも壊さないし、……」
 自分で話していて自分の無能さに気分が落ちてきたが、それが真実なのだから仕方がなかった。
 自分は未だに力の制御が出来ずに柊から叱られてばかりだが、阪田が同じような問題を起こしている場面は見たことが無い。経験値自体は自分と一か月しか変わらないはずなのに、彼は既に『強化人間』の力を日常生活の間は制御できているのだろう。

「だから、お前の方が俺よりずっと……良い。そう、優秀だ」
 たどたどしくもどうにか自分の考えを言い切って顔を上げると、阪田はどうしてか――物凄くばつの悪そうな表情を浮かべていた。

「ああ、ううん、僕……そっか、鎧戸くんにはまだ言ってなかったね……」
「……何のことだ?」
 妙に歯切れの悪い反応を疑問に感じて問いかけると、阪田は困ったような笑顔でゆっくりと口を開いた。
「伝えるのが遅れちゃっててごめん。僕は、その……、」

「――使えないんだよね。『強化人間』の力、っていうの」
 

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