6-4



 ポトリ。不意に頭上から聞こえた音は壁を一枚隔てたように籠っていた。

 ポト、ポトリ。天井、つまりは地表を叩く雨の音は次第にざあざあと一つの波になって、じとりと浸みる湿気が土の下まで降りてくるような気がする。天気予報通りだ。『午前中から、激しい雨になる模様です』。思わず瞼を閉じて耳を澄ますと、頭の奥で静かなアナウンスが蘇った。
「――から、……よ」
 ここ暫くは晴天の日が続いていたから、こんな忙しない雨音を聞くのは久し振りのことだ。息を吸えば今にも濡れた土の匂いが漂ってくるような気がしたけれど、薄暗い地下道の中で鼻腔を通り抜けるのは錆びた金属と黴の匂いだけだった。

「――え、…………ちょっと、聞いてんの?」

 ぱしりと背後から肩を叩かれて、夏生は漸く現実に返った。
「あ、」
「あ、じゃなくて」
 「だからさ、」、鋭い声と共に、ぐいと押された背中に軽い衝撃が走る。首だけを動かしてゆっくりと振り返ると、背後の柊は呆れ切った表情で口を開いた。
「お前がジメジメ暗い地下道で物思いに耽ろうが立ったまま寝ようが自由だけど、そこに止まられると俺の通行の邪魔になるって言ってるの。聞く気がないなら最初からこの耳は飾りですって背中に書いといてよね」
「悪い」
 相変わらず口を挟む間もなく降り注いでくる悪口の豪雨に打たれていると、柊ははあ、とわざとらしい溜息を吐いた。

 八月十三日。丁度朝食を終えた午前七時頃、いつも通り天井近くのスピーカーから告げられた討伐対象の異形はC地区に出現したという一体だった。出動要請があったのは目下強化特訓中の阪田を除いた三人。柊と自分、それから春日江だ。
 二手に分かれようと道中で提案した柊の話を聞いていたのか聞いていないのか、地下道を出るなり「では私は行くね」と真っ先に走り去っていって、再び此方に連絡してきた際には既に討伐を終えていたのはやはり春日江だった。

 数時間彷徨った挙句、何の役にも立たず帰ることになったことは少し情けなくもあるが。無事に討伐が終わったのであればそれが何よりだ。地下道にも漏れ聞こえる外の雨音は先程よりも激しくなって、柊は「降る前に戻れてよかった」と独り言のように呟いた。
「ほら、さっさと行くよ」
「……そう、だな」
 尚も立ち止まったままの自分を追い越して歩き出した柊に相槌を返すと、男はそのままスタスタとエレベーターホールの方向へと歩き――そして数秒後、何やら物言いたげな表情でクルリと此方を振り返った。
「……何、どうかした?」
「? いや、……何がだ?」
 不自然に止まった歩みに首を傾げると、男は何か不可思議なものでも見るようなじとりとした目で夏生を見つめ返す。
「…………いや、だから、何でお前はまだ入口に突っ立ってんの?」
「……、ああ……」
 ――言われてみれば、俺もこれから中に戻るのだった。慌てて歩を進めて柊に追い付くと、青年は苛立ちを通り越して呆れ切ったような表情で口を開く。
「……お前がバカなのはいつものことだけど。今日はそれにも増していつもよりアホ面な気がするんだけど。今日っていうか、昨日から?」
「昨日……」
「ドクターに何か盛られた? ……いや、素面か」
 投げやりな問い掛けを寄越してくる柊の言葉を背景に、夏生はそっと昨晩の出来事を思い返した。

 ――昨日の夜、報告書を届けに行った後からだろうか、柊の言う通り、確かに普段より頭がぼうっとすることが多いような気がする。春日江を資料室に残して居住スペースへ戻った後の自分は何をしていても何処か上の空で、「疲れたよね」と気遣ってくれた秋人に言われるままシャワーを済ませて眠った。
「……」
 今日だって、充分寝たはずなのに何処となく身体が怠いような、何か重たいものが両肩に圧し掛かっているような感覚がある。時間的には十分な睡眠を取った筈なのだけれど、早朝から長く消えない倦怠感は午前十一時を過ぎた今でも身体の反応を鈍くしていた。
 『低気圧』? 考え込む間にも止む気配のない雨の音に、ふと中々起きてこない朝に秋人や柊が使う単語が頭を過ったが、自分はあの二人程そういったものに敏感な身体のつくりをしていない。これが気候の問題であるならば、彼らを差し置いて頑丈だけが取り柄の自分が調子を崩していることには違和感があった。
 ――昨日は一日慣れない書類仕事に費やしたから、日頃使わない筋肉を使ったせいで肩が凝っているのかもしれない。
「……鈍ってるのかもしれない。暫く、外に出てなかったから」
「ならいいけど。やめてよね、お前が調子悪いと阪田ちゃんが心配する」
 そしてお荷物が二倍になる。歩き出しながら冷ややかに放たれる文句はやはり普段通りの響きで、夏生は素直に頷いてその背を追った。

 金属製の扉を閉めてしまうと、雨音はずっと遠くなる。薄灰色のマットで靴底の泥を拭って、尚も雨粒に打たれる外の世界を思った。
「……春日江も、濡れてないといいが」
「俺達より先に戻ってるんじゃない」
 にべもなく言い放った直後。「雨とか気にしないけどね、あいつ」と独り言のように洩れた柊の呟きに、夏生はこくりと頷いた。それは、そうかもしれない。


「……そういえば、……昨日の字は、何処が間違ってたんだ?」
「結局分からないで出したわけ? だからあれは――」
 呆れた声で話す男と並んでエレベーターを出た瞬間、柊は不意に言葉を止めた。どうした、と声を掛けようとして、無人だと思っていたエレベーターホールに自分達二人以外の気配があることに気付く。
 やはり春日江が先に戻っていたのだろうか。そう何の気なしに顔を上げて、夏生はすぐにその予想が間違いであることを悟った。

 扉の前に佇む人影の背丈は春日江のそれより一回り大きく、身体が身に纏っているのは自分達四人に共通の上着ではなく濃緑色のジャケットだ。
 ――声だけは毎日のようにスピーカーから聞いているものの、彼が直接此処を訪れるのは珍しい、気がする。しかも、事前に何の連絡もなく。
「……。……蕪木、さん?」
 長いこと待っていたのだろうか。大柄な身体を折り曲げるようにして壁に寄りかかっていた男性は、夏生の声に気付いたのか、「ああ」と少しだけ安堵したような笑みを見せた。
「鎧戸君、ご苦労様。帰ったばかりで悪いんだが、少し話したいことが、……」
 ある、と続けようとしたのだろう。姿勢を正した顔に浮かんだ硬質な微笑は、しかし次の一秒、夏生の隣に佇む人物を視界に入れた瞬間に崩れ去った。
「……柊も、ご苦労だった」
「どうも」
 一瞬だけ明らかに笑顔を引き攣らせた男は、けれどすぐに眉間に寄った皺を質して鷹揚な笑みを作った。
「それで、……今日は君じゃなく、鎧戸君に用があるんだが、」
 コホンと一つ咳払いすると、じとりと胡散臭げな目を向ける柊に、言い訳するような口調で「悪い話じゃない」と言葉を足す。

「……」
 ――蕪木さん。白衣の男(あの人)の助手であり、自分達の世話役でもある特務機関の職員。彼と柊は、此処に来てまだ二月も経っていない自分の目から見ても分かる程度には折り合いが良くなかった。
 良くも悪くも主張が強い人間の多いこの場所で、彼自身は比較的良識的な人であるように夏生には思えたが。秋人との一件で出た『口止め料』の話も含め、彼が持ってくる仕事関係の話題はあまり――良い話ではないことが多かった。
 普段から何事に対しても慎重すぎるきらいのある柊のことだ。用件を聞く前から先回りで警戒している部分もあるのかもしれない。一瞬ピリリと痺れるような緊張を帯びた空気に、夏生は黙って成り行きを見守ることにした。
「……任務には関係ない、ちょっとしたことだ。十分で済む。君が拒否する謂れもない」
「……別に俺は何も言ってないですけど、まだ」
 自分の話の筈なのに、いつの間にか蚊帳の外に置かれている気がする。
 その後も暫く続いたやりとりを静かに眺めていると、やがて話が済んだのだろう、「ちょっと」と短い言葉と共に軽く肘で腕を小突かれた。
「元々はお前に用でしょ。行くなら行けば」
「ああ、……その……」
 場所を移動した方がいいのだろうか。出方を待つように見つめると、蕪木さんは数秒何かを思案するかのように視線を彷徨わせた後、「ここで良い」と曖昧な微笑みを見せた。

 「じゃあ俺はこれで」と冷たい声を残して扉の向こうに消えて行った柊を見送って、夏生はひとり残された蕪木の方へ向き直った。
 白茶けた蛍光灯がコンクリ―トの壁を照らしている。二人だけが残されたエレベーターホールは、相変わらず閉め切られてはいるものの、細々と灯された照明のお陰で辛うじて『昼間』の明るさを保っていた。正午の照明の下、臙脂色のネクタイを締め直した男性は、一度小さく深呼吸してから口を開いた。
「悪かった。また見苦しいところを見せて……」
「いえ……」
 『また』というのは初対面のときのことだろうか。あの頃よりも柊の辛辣な口調には慣れているから、今回は左程驚きはしなかった。気まずげに吐き出された謝罪に首を横に振ると、蕪木さんは「そうか」と曖昧に頷いた。
 『話したいこと』というのは、結局何の用件なのだろう。少しだけ気になったけれど、相手の話の腰を折ってまで先を急かすのが失礼だという程度の意識は自分にもあった。
 ――それに、俺一人にだけということは、恐らくそこまで至急の用件ではないはずだ。蕪木さんが切り出してくれるのを待っても問題はないだろう。
「……柊とは、上手くやれてるか? 阪田君とも」
「その、上手く、……かは、わからない。ですが。まあ」
 上手くなどという言葉を使っては、柊には心外だと罵られるに違いないが。彼や秋人――蕪木さんから名前は出なかったけれど、春日江との共同生活にも慣れてきてはいる。仕事に関しては自分の不器用さに落ち込むことはあれど、此処での暮らしにおいて特に困ったことはない。板につかない敬語で答えると、蕪木さんは「それはよかった」とふっと息を吐くように呟いた。
「……蕪木さんは、柊とは長いんですか?」
「ああ、……まあ、親戚の子供みたいなものだな」
 耳に届いた単語と頭に浮かぶ柊の顔が咄嗟に一致しなくて、夏生は暫し瞬きをした。――『子供』。この歳になってから彼らと出会った自分にはどうにも想像がつかないが、柊や春日江は夏生よりずっと長くこの地下施設で暮らしている強化人間達なのだ。今よりもっと幼い頃から彼らの面倒を見ていたとすれば、「喩えだが」と苦笑する蕪木さんの言葉も不思議ではない。
「扱いづらいだろうが、仲良くしてやってくれ。出来ることなら」
 ということは――夏生が思っていたより、仲が悪いというわけではないのかもしれない。そう安堵はしたものの、柊自身から仲良くしてくれと言われるわけもないのに、本人の居ない所でそうした言葉に頷くのは不自然である気がして、夏生は男の言葉を曖昧に受け流した。

 此方の沈黙をどう受け取ったのか、蕪木さんは仕切り直すように「そうだ、」と先程よりも明るい笑みを浮かべた。
「話が逸れたな。今日君を呼び止めさせて貰ったのは、その……ご家族のことだ」
「……何か、あったんですか?」
「さっきも言ったが、悪い話ではないんだ」
 不安げに尋ねた夏生を片手で制した男性は、何処か弾んだ声で言葉を続ける。
「前に、ご家族への謝礼の件を話しただろう。住居の支援のことも」
「はい」
 ――あの時蕪木さんは、金銭面の援助だけでなく、境界付近にある自宅から比較的治安の良い中心部の住居への移住の手配まで申し出てくれていた。移住の方は家族に断られたと聞いていたし、秋人との一件では複雑な感情も抱くことになった謝礼(口止め料)の話だけれど、それ自体は今も以前と変わらず有難いものだ。
「最初は取りつくしまもなかったんだが、何度か話し合ってね。君が心配しているということも話して、漸く此方が探した物件への入居を決めてもらった」
「! そうか、でしたか」
 予想外の朗報に、思わず敬語が崩れかける声は少し上擦っていた。
 ――今も境界付近の集合住宅で暮らしているであろう母と姉。お世辞にも治安が良いとは言えないあの地区で、これから先も女二人で生活してもらうのは心もとないとずっと思っていた。引っ越してくれたら、とは考えていたが、自分が消えて意固地になっているであろう母親を説得するのは難しいだろうと感じてもいたのだ。
「ありがとうございます。……すごく、助かります」
 半ば実現できないことではないかと思っていただけに、ふっと胸に込み上げた安堵の感情は絶大だった。無意識に緩く握っていた上着の生地に、じわじわと体温を上昇させた指先から温かい熱が移るのを感じる。
 ――よかった。中心部だって、何もかも安全ではないことは承知している。けれど彼女達が今より少しでも危険の少ない場所で過ごしてくれるなら、自分にとってそれ程嬉しく安心できることはなかった。
「、いや、俺はそれほど大したことは……」
 一度深く頭を下げると、此方の喜びようが伝わったのか、蕪木さんは少し照れたような様子で顔の前で小さく手を振った。けれどすぐに姿勢を正して、今度は何やら真剣な声色で続ける。
「それで、なんだが」
 まだ何かあるのだろうか? 首を傾げる夏生を前に、蕪木は内緒話でもするような口調で声量を落とした。
「……本当なら、こういうものは預かってはいけないことになっているんだが。『どうしても』と言われて」
 胸ポケットに差し込まれた二本の指が、濃緑色の生地の隙間からするりと白く薄い何かを抜き出す。

「――これを、君に」
 目の前に差し出された物体が何なのか、理解するためには数秒程思考の時間が必要だった。


 灰色に湿る正午のエレベーターホールで、真白く光る四角の存在は何処か現実味に欠けている。
 成人男性の掌の上に半分納まってしまうような小柄の状袋。一片の汚れもなく、恐らくはしっかりと糊で閉じられたそれは、紛れもなく、何の変哲もない白い封筒だった。

「…………手紙?」

 遠くで、雨の音が聞こえた。

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